第2話

アパートの入り口まで来て歩調をゆるめた……


その瞬間。



 確かに、誰かが昌代の髪をなでた。



 まるで、愛しいものをその手で確認するかのように、ゆっくり丁寧に。



 昌代は恐怖からマスカラたっぷりの目をカッと見開き、小刻みに震えだす。



 次の瞬間!



 誰かに口を塞がれた昌代は、悲鳴を上げることもなく


闇の世界へと引きずり込まれて行ったのだった……。



☆☆☆


 紗耶香がその知らせを聞いたのは、専門学校が休みの日曜日だった。



 自宅のリビングで借りてきたDVDを見ながらポテトチップスを食べていた、


ごく当たり前の日常。


 その、矢先の出来事。



 テレビ画面は、ちょうど映画のクライマックスをむかえていた。



 もう少しで凶悪殺人事件の真犯人が見つかる場面。



 口の中のポテトチップスをゴクリ、と喉を鳴らして飲み込み、


上半身を画面へいっぱいに近づける紗耶香。



 長い髪がジュースのコップに入ったことも気付かない。



『この事件の真犯人は……』



 テレビの中で、名探偵がおきまりのセリフを吐いた。



 それと同時に、テレビ横のコードレスフォンが鳴り響く。



 トゥルルル


 トゥルルル


 ツーコール目で、一緒に映画を見ていた母親の飯田由佳子(イイダ ユカコ)が受話器を取る。



『真犯人は……』



「もしもし?」



 主人公が顔をあげ、母親が話をはじめる。



『あいつだ!』



「死んだ!?」



 テレビと現実の音がこちゃ混ぜになった。


 しかし、紗耶香の目は真犯人を映しだしたテレビではなく、由佳子を見ていた。



……死んだ?



 普段使わない言葉が母親から飛び出したことに驚き、唖然とする。



 死んだって、何が?



 思考回路がうまく働かず『誰が?』ではなく『何が?』と思う。




「嘘……昌代ちゃんが、死んだの!?」


 その言葉に、紗耶香が小さな悲鳴を上げた。


 昌代と紗耶香はイトコ同士である。


 最近ではあまり会うこともなくなっていたが、高校を出るまでは、まるで姉妹のように仲がよかった。


 実際、独りっ子の紗耶香は昌代のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。



「……死んだ?」



 その言葉の意味が理解できないまま、頭の中は真っ白になる。


 さっきまで聞こえていたテレビが言葉を無くし、さっきまでついていた電気が消える。



 ただの20畳の空間に、1人でポツンと座り込んでいる感覚。



 死んだって、どういう意味だっけ…?



 突然、紗耶香の中から『死ぬ』という単語がポンッと弾き飛ばされた。


 小学校で習った言葉、習った漢字がわからない。



「しぬ……」



 その言葉の意味を求めて、フラフラとリビングを出て行こうとする。



「紗耶香!」



 由佳子に痛いくらい腕を握られて、立ち止まる。


 いつも誰かを魅了する大きな目が、今はどこも見ていない。


 焦点の合わない黒目は、ぽっかりと開いたブラックホールのようだ。



「紗耶香、大丈夫?」



 今の電話で、由佳子自身も青ざめた表情をしている。



 しかし、その手はしっかりと紗耶香をつかみ、離さない。




 お母さん……。




 焦点の合わないまま、二重三重にかさなる由佳子の姿をとらえた。



 しぬって、どういう意味だっけ……?



 次の瞬間、紗耶香は由佳子の腕に倒れ込んだのだった……。


☆☆☆


 警視庁捜査一課の警部、新田順一(ニッタジュンイチ)は


山中(さんちゅう)の殺害現場で、大きなため息を吐いた。



 警部という職業がら、殺された遺体は見慣れている。


 しかし、何度見たって気分がいいものではないことは確かだった。



「絞殺のようですね」



 新田の部下である、20代後半の藤堂勇気(トウドウユウキ)は、そう呟くように言った。



 藤堂はヒョロリと背が高く、肋骨が見えそうなほど貧相な体をしている。



 いわゆる、モヤシのような男だ。



 新田は寝癖だらけの髪を更にグシャグシャとかき乱し


「生きたまま被害者を山へ引きずり込み、強姦もせず金もとらず


ただ首を絞めて殺しただけだ……。


何が目的の殺人なのかサッパリだな」


 と、返事をする。



 新田はモヤシの藤堂よりはるかにガタイがよく、笑っているときでも眉間にシワを作りっぱなしで


鬼のような顔つきをしている。



 藤堂によく


「怖いですよ」


 とからかわれるのだが、警部という職業を何年も続けていれば


誰だって鬼のような顔になってしまう。

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