第9話

見える場所には、どこにも事務所名のような物は書かれていない。



 こんな所にポツンと小屋が建っている時点で充分に怪しいが、


仕事内容を考えると人目のつかない場所にひっそりと事務所が存在する事にも納得がいく。



 幸也が声をかけると、中から人の声がやかましく聞こえてきた。



「きっと依頼者だ!」



 というさっきと同じ声に続き、


「どうせまたろくでもない仕事だ」


 と、今度は若い男のもののような声が聞こえる。



「ろくでもなかろうが何だろうが、客がここまで来てくれてんだ!


つべこべ言わずに出やがれ!」



「朝から怒ってばかりだと血管が切れて死ぬぞ」



「うるせぇ! 誰のせいだと思ってやがんだ!」



 そんなやり取りをする声が数回聞こえた後、ようやく目の前の扉が開いた。



「あの、ここは――」



 そう言いかけて、目の前に突然現れた上半身裸の青年に幸也は言葉を失う。



 大きな黒目に、濡れて頬にペッタリと張り付いた漆黒の髪が妙に色っぽく、そして闇を連想させた。



「ネコ! そんな格好で出んじゃねぇ!」



 青年の後ろからの怒鳴り声に、幸也はハッと我に返る。



「……ネコ?」



 幸也の疑問系の言葉に青年は、


「俺の名前」


 と、一言返した。



「……ネコ。俺は新田幸也」



 自然と、右手を伸ばしていた。



 まるで磁石のように、ネコという異質な名の青年に引きつけられる。



「依頼者か?」



 ネコは差し出された幸也の手を握り返さず、冷たさで包み込まれたような口調で言った。



「あ……あぁ」



 行き場のなくした右手を引っ込めて、幸也は口元に愛想笑いを浮かべる。



 客の方が気を使って笑顔を見せるなんて、前代未聞だ。



「入れ」



 ネコは表情を崩すことなく、幸也を蒸し風呂のように熱いプレハブ小屋へと招きいれた。



 これが、新田幸也とネコの最初の出会いだった……。



☆☆☆


 クーラーをガンガンにきかせた車内で、カクンッと頭を垂れた瞬間、藤堂は目を覚ました。



 アゴにつたうヨダレをスーツの袖でぬぐい、キョロキョロと辺りを見回す。



 真夏の太陽を物ともせずに冷え切った車内で、いつの間にか居眠りをしていたらしい。



 窓の外に目をやるとそこにはもう紗耶香の姿はなく、腕時計を確認するとあれから一時間ほどが経過していた。



 その時間に目を丸くし、



「新田さん!」



 と、隣にいるはずの新田に振り向く。



 しかし、そこはもぬけの殻だった。



 どうやら自分が爆睡している間に葬式も始まり、気付けば新田もいなくなってしまったようだ。



声くらいかけてくれればいいのに!



 心の中でそうグチを零し、藤堂はキーを抜いて車を下りた……。



 新田がトイレから戻ってきたのは、藤堂が式場の中へ入ってからのことだった。



 手にはパンとコーヒーの入ったレジ袋か握られていて、会場のすぐ隣にあるコンビニまで行ってきた事がうかがえた。



 元の駐車場へと足を踏み入れる、その瞬間。



 新田はある人物に気付き、歩調を止めた。



「何だあれは」



 駐車場に停めてあるバスのすぐ横で、式場の入り口を凝視している男がいる。



 男の服装は葬式にきたとは思えない濃いブルーのTシャツにジーンズという格好で、ここにはあまりにも不似合いだった。



 そして、男は入り口の真横に置いてある《飯田家葬儀場》と書かれた大きなプレートに視線を向けたまま、


一歩、また一歩と後退を始めた。



 その表情は険しく、まるで見てはいけないものを見てしまったかのようだ。



 新田は息を潜め、その様子をうかがう。



待ち人来たり!



 そう思うと鼓動は高まり、自然と手に汗がにじみ出た。



 視線をその男へ集中させたまま、スーツのズボンから携帯電話を取り出し、番号の1を押す。



 1、を押しただけで藤堂に繋がるようになっているのだ。


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