第9話 はちみつ瓶③
さて、どうしたものか、と思いながら、ルークは歩く。あのはちみつ瓶があったところで、何ができるかと言われれば何も思いつかないが、あの女に半ば強引に取られたことを思うと悔しくてたまらない。
昨日の夜にマダラと出会った現場に行ってみたが、何も見つからなかった。「犯人は必ず現場に戻る」なんてセリフをどこかで聞いたことがあるが、その犯人と出くわすためには、お互いのタイミングというものがあるだろう。
「はあ、ほんとに手がかりないな……」
探し始めた初日でバタフライ・ドールに出会えたのは幸運だった。けれどもその幸運を掴みきれなかったことに、ルークは自分自身に対して苛立ちを覚えた。もっと他にいい方法があったはずだ、なのになぜ……。それから、自分の精神状態を思い出して、仕方のないことか、と正当化する。
実際、悔やんでも仕方がなかった。ひとまず食料百貨店で同じサイズのはちみつ瓶を贖う。まさか瓶を手に持って歩いていたらバタフライ・ドールに会えるわけでもない。それでも何もしないよりは、いい気がした。
店を出て、ブラブラと商店街を歩く。ルークは考えごとをしていたが、二つ角の先に見覚えのある顔を見つけると、目を少し開いた。
ラゼルだ。
買い物リュックを背負い、うつむきがちに歩いている。昨日のことを思い出して気まずさを感じたが、向こうはルークに気づかないようだった。軽く手を挙げてみても一向に気がつかない。
「——っふ」
鈍感なラゼルに、ルークは一瞬笑いをこぼし、目の前に立つとパンと軽く手を叩いた。
「うわあっ!?」
ラゼルが思ったよりも驚いたのに釣られて、ルークも一瞬体をぐらつかせたが、すぐにいつもの冷笑癖が顔を出す。
「君の目はどこについているんだい?」
「ル、ルーク! び、びっくりした……」
と、心の底から言われた。そこまで驚かせるつもりではなかった。効きすぎたらしい。
「こんなところで、買い出し?」
普段なら仕事を始めている時間のはずだ。ルークが尋ねると、ラゼルは悪いことをしたときのようにギクっと顔をこわばらせ、その上に無理に笑顔を作った。
「ああ、まあ、そんなところだ」
「いつも奥さんに任せていなかったっけ」
「き、今日は入り用があってな……」
と言いながら目を泳がせる。なんともわかりやすい。こいつは昔から隠し事のできないタイプだ。だからこそラゼルと接していると、自然に表情が緩まる。
「奥さんと喧嘩とか?」
「違う違う、そういう訳じゃないんだ。ただ、その……まあいいじゃないか。ルークだって、何しているんだよ」
「僕かい? 僕はだね、聞いてくれ」
ルークはちょっとした優越感を感じながら、声をひそめた。
「モテ期到来だ」
「なんだって?」
「嘘じゃない。まあそのうちわかるさ」
と勝ち誇った笑顔で告げてから、昨日聞きそびれていた本題を思い出す。
「そうだ、そうだった、ラゼルに聞こうと思ったんだった」
「何を?」
ラゼルは困惑しているようだった。よほどルークのモテ期発言に衝撃を受けたのか、それとも別の理由か。
「赤いチョーカーをつけた女の人、見てないかな?」
「ない」
ラゼルはすぐに返答した。ルークは目を細めると、構わずに説明を続ける。
「多分、黒っぽいワンピースを着ていて、髪の毛が右半分、短く切れている」
「そんな……知らない」
「そっか。もしかしたら僕の妹に似てるかもしれないんだけど」
説明を受けて、ラゼルはしばらく黙っていたが、真剣な顔でルークに質問した。
「その子、見つけてどうするんだ。貴族のところに連れて行くのか?」
「どうしてまた、それを聞くんだい?」
「前も言ったが……俺はな、ルーク。お前にこれ以上危ない橋を渡ってほしくはいんだ。今まではうまく渡れたかもしれない。でもそれで、次に橋が壊れない保証はないんだぞ」
「ラゼル……」
まいったな、とルークは思った。本気で心配されていることが伝わってくるからこそ、反論しにくい。
「大丈夫、今回で最後にするつもりだよ」
「それは前も言ってたじゃないか」
どうやら信用してもらえないらしい。その積み上げてきた信用を壊していったのは僕の方だから、仕方のないことかもしれない、とルークは思った。彼の前では自分も本心を告げないと意味はない。
ルークはまっすぐに、ラゼルの目を見て、
「自分の目で確かめる必要があると思ってる。彼女が本当に、アンなのかどうか」
「……」
「で、どこにいるんだい」
ルークは一変して明るい調子で質問する。バタフライ・ドール、マダラの居場所だ。ラゼルは息を飲み込んだように黙っていたが、慌てて、
「見てないって言ってるだろ」
「なんならどうして『その子』って言った? 子供とは伝えてないはずなのに」
ラゼルはバレてしまった、という表情になった。その表情でもう明らかだった。なんともわかりやすい。ルークはニヤリと笑った。
こうした細々とした買い物は、ラゼルの奥さんの仕事になっている。愛妻家のラゼルが妻と喧嘩するところなんて見たことがない。ラゼルが代わりに買い物に行く理由は、妻の体調不良か、もしくは妻にしかできないような、よっぽどのことがあったからだと予測できる。
あとはラゼルの反応を見ていたら……なんだか、わかってしまった。長年の付き合いの功だろう。
「はあああ」
ラゼルはボリボリと頭をかく。これは彼が弱っている時にする癖だ。
「全部顔に出る。性格、損してるよな、俺」
「得してると思う」
ルークは言った。
「悪いことをしようって、そもそも思わないで済むんだから」
ルークの本心だった。自分がどんな顔をしていたかわからなかったが、ラゼルはしばらく驚いた様子でルークを見ていた。それからまた、頭をかき始め、
「はああああ、ほんと、かなわないな。いるよ、多分その子」
と認めた。
「そっか、それじゃあ……」
「でも合わせる前に、一個聞きたい。あの子を、どうするつもりだ」
ルークが喜びかけると、ラゼルはそれを遮って、生真面目な調子で尋ねる。
「どうするつもりって?」
「貴族に渡すって言うんなら、会わせない」
ラゼルの発言は意外だったが、すぐに意図を理解した。もし、あのバタフライ・ドールが本当にアンだったら……? いくら仕事とはいえ、実の妹を貴族に引き渡すことがあってはならない、ということだろう。
ラゼルの目は告げている。仕事と家族、どっちが大事なんだ?
ルークはラゼルの心配を溶かそうと、三日月のように笑った。
「アンじゃないって証明するよ。そしたらいい、だろ?」
「何者なんだあの子」
「僕にもわからない。……わかるのは、あれが人間じゃないかもしれないっていうことだけだ」
バタフライ・ドール。それが何を意味しているのか、この目で確かめる必要がある。
ギルバードのおっさん貴族に引き渡すかどうかは、その後に決めることだ。今じゃない。
「……俺はお前に、変なものと関わってほしくないんだけどな」
ラゼルはそう不満をこぼしていたが、しかし了承してくれた。
またラゼルの家に来た。花壇や庭がある訳じゃないのに、外で飛んでいる蝶の数が、妙に多い。十羽以上は飛んでいる。意識が敏感になって視界に入るだけだろうか? いや、これは……とルークは推測する。
ラゼルの住居は二階だった。ラゼルはリュックを玄関に下ろすと、黙ったまま一室のドアを開けた。
そこには見覚えのある顔があった。
陽光の入る部屋だった。日中に見たマダラは、夜に感じたほど、アンに似ているとは思えなかった。
案の定、髪の毛が左半分だけ長い。その部分を結んでいるが、珍奇な印象を与えている。
昨日ラゼルの妻が「両方そろえるために、切ったらどう?」と提案したらしいが、「髪は女の命だっていうんでしょ?」と言って、そのままにしたらしい。服は妻の着ているものを借りたのか、随分と大人びたものを着ていた。黒色のブラウスに柿色のスカート。そして首にははっきりと赤いリボンが見えた。
マダラはラゼルが入ってくると、
「あ、ラゼル」
と親しそうに言いかけたが、ルークを見て途端に顔面蒼白になった。
「うそ、騙されていたの!?」
その反応を見ていると、ソウダ騙サレテイタンダ、と言って反応が見たい気もしてきたが、やめておくことにした。後で根に持たれたら面倒そうだからだ。
ルークは黙って入ると、はちみつ瓶を取り出す。
「忘れ物」
持ち方を変えてラベルを見せると、マダラの前に持っていく。マダラは戸惑いながら、両手で受け取った。
「あ、ありがとう……?」
警戒するべきなのかわからない、といった様子だった。声はかなり似ている気がする。
ルークはできるだけ穏やかに頼むことにした。
「変なところに連れていったりしないから、話を聞かせてくれないかな」
マダラは、ルークとラゼルを交互に見る。信頼か裏切りか、天秤にかけている様子だった。
待ちかねたラゼルは、訴えるように口を開く。
「俺の友達なんだ。変なやつじゃない。まあちょっと変かもしれないが」
「待て、どこも変じゃないだろ」
ここで警戒されたら逆効果になる。何を言ってくれているんだと、ラゼルに目で訴えた。ラゼルは仕方なさそうに笑う。
「うん、変だと思っていないところが変な証拠だな。一番効率のいい暖炉の燃やし方を発明したとか言って、家を燃やしかけたりな」
「それを言えばラゼルだって……」
いくらアンに似ているとは言え、見知らぬ女の子を家に泊めるとか変だろう、と言いたかったが、本人のいる手前、グッと堪えた。
「ああもう、いいよ変で。それと、あれは火事にするつもりじゃなかったんだ。まさか引火するとは思わなかっただけで……」
「普通、対策するよな?」
その通りだ。今ならする。なんせ、十二年前の子供の時の話だ。十二年前の話を、現在の評価に持ってこないでほしい。
そのやり取りのどこが面白かったのか、クスクスと笑い声が聞こえてくる。どこからと思ったら、マダラが笑いを堪えているようだった。
「質問って何?」
マダラはイタズラっぽい笑顔を見せた。
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