第7話 はちみつ瓶
次の日、人の動く気配がして、目が覚めた。
「ん……?」
まぶたを開けると、見慣れない天井があった。ルークは戸惑いを隠せずに周りを見る。
ここはどこだ? 確か……。
「ああ」
寝起きの掠れ声が漏れる。シエナさんの部屋に泊まっていたんだっけ。何で泊まっていたんだ? ああそうだ、断りきれなくて……ルークはだんだん意識がはっきりしてくると、昨日のことを思い出してきた。
いつの間にか椅子ではなく床に寝ている。固い床で眠りが浅かったらしく、頭が痛みを訴えている。だが朝が来たことの証明に、やわらかい朝日が部屋のあちこちに飛び込んできている。
下から何かガタゴトと物音が聞こえる。作業をしているのだろうか。しばらくして、階段を登る音が聞こえ、ガチャッと遠慮気味にドアが開かれた。ベーコンを焼いたこんがりした匂いが鼻をくすぐる。
エプロン姿のシエナは、注意深く入ってきたが、ルークと視線が合うと、
「あ、ルークさん、おはようございます……」
ちょっぴり恥ずかしそうに挨拶した。すでに起きて朝食を作っていたようだ。トーストを乗せた皿をそれぞれ両手で持っている。ルークの前を横切りながら、
「朝ごはん、よかったら食べていってください」
机の上に皿を置く。
昨夜から一晩寝て、だいぶ落ち着いたらしい、シエナの声音は静かで、義務的になっていた。シエナは髪の毛を下ろしている。仕事中には結んでいるから、どこか新鮮に見えた。朝日に反射して、虹が勝って光る毛先。袖捲りして現れる彼女の細い腕。
生きている。
シエナはここで生きている。
「あの、ルークさん……?」
ルークが何も言わずにシエナを見ていたからか、シエナはたじろいだ様子で声をかけた。
「せっかくだから頂いちゃおうかな」
ルークは寝起きの硬い皮膚を動かして穏やかに微笑む。それから立ち上がると、テーブルに置かれている皿の様子が見えた。朝食はルークの好物である、ベーコンエッグトースト。
それから昨日飲んだ果汁もあった。
「うまいな」
席につき、トーストに齧り付くと、ルークはこっちの様子を伺っているシエナに感想を漏らした。シエナは顔の緊張をほぐして、それから嬉しそうに、
「よしっ」
と小声で言った。シエナが三分の一を食べた頃には、もうルークは完食していた。
「助かったよ」
腹を満たしたルークは、口を拭いながらシエナに笑いかけた。
「起きる理由を探さずに済んだ」
「……?」
「いいや、昨日は悪いことをしたかな」
「——全然、そんなことありませんって! むしろよかったです。たくさんお話聞けて」
急に声を裏返して、シエナはフォローに入る。
「そっか、それならよかった」
ルークは安心した。死んだ家族の話なんて、あまり他人にするものじゃない。もしシエナがルークに好意を持っているのだとしたら、尚更だ。
マダラを探さないといけない、ルークは思う。でもあまり気乗りがしない。マダラを確保したらギルバートに渡さないといけない。リラ図書館の話は本当なのか? もし、……IFの話だ。マダラが記憶を失ったアンだとしたら……? それを確かめるためにも、マダラを探す必要がある。
「ごちそうさま」
ルークは椅子から立ち上がった。椅子にかけてある自分のコートを摘み上げると、広げてはおる。それから風呂敷のように畳んだ灰色のローブを持ち上げて、
「じゃ、随分お邪魔したよね。仕事、頑張って」
「あの……」
シエナはまだ何か、言い足りなさそうに、ルークを見つめた。
「いえ、何でもないです」
と引っ込めてしまう。
「そんなこと言われたら気になるよ」
ルークはからかいを交えながら言った。するとシエナは恥ずかしそうに
「探している人って、ルークさんに似ている人ですよね」
「はい?」
マダラと自分が似てる? 似ているのだろうか。シエナはどうしてそう思ったのかと思っていると、
「だって、ルークさんの妹に似てるって言ってたじゃないですか」
「ああ、確かに」
「ほら」
やっぱり、と言いたげにシエナは笑った。
ただ、自分と妹が似ているかと言われたら、あまりそうは思えない。それはいつも一緒にいたからで、側から見たらちゃんと家族のように見えるかもしれないが。
「もし見つけたらルークさんにも伝えますね!」
シエナは明るく伝える。いつものシエナに戻ったように感じて、ルークは安心した。
「ああ、ありがとう」
ルークも笑った。だが、必要以上に口角が上がった。
家を出てから、ルークはやっと落ち着いて考えることができた。
「やっぱり、つまり、そうだよな……」
とぶつぶつ呟く。道の往来は家事や荷運びで賑やかになってきている。
シエナはルークに好意を持っている。
それはつまりその、好きだということだ。あの態度を見ているとそうとしか思えない。ついに僕にもモテ期がやってきたらしい。と思いたくなるが、正直、今はマダラのことで精一杯で、シエナをどうしたらいいのか、考える余裕がない。
さて、どうしようか。
ルークは思った。マダラを見つけたかと思ったが、手元にあるのは破けたローブとはちみつ瓶だけだ。マダラがどこに逃げたのかわからない。振り出しに戻ってしまった。
とりあえずコートは、知り合いの、探しのプロに預けた。嗅覚の発達した犬に匂いを嗅がせて相手を探す方法がある。相手が街を出るなど、それほど遠くに離れていない場合は、見つかる可能性がある。
「場所がわかったら言ってほしい」
人相と身長を伝え、「どうか手荒なマネはしないでくださいよ」と言いながら前金を渡した。
そこから後は、何も考えがなかった。
たまたま小さな広場に行きつき、ルークは設置されていたベンチに座る。それから手持ち無沙汰にはちみつ瓶をいじる。それから、ふと、手を止めた。
「まさかこんなかに毒が入っていたりしないよな……」
マダラは、ナイフに毒を塗っていると言っていた。塗るには毒を入れる容器が必要だが、ローブには、はちみつ瓶以外見つからない。それとも、服にもポケットがあったのだろうか。今となってはわからない。
ルークは途端にいじる気が失せて、はちみつ瓶をベンチに置いた。
手がかりはこれだけだ。また振り出しに戻ってしまった。
それどころか、謎が深まった。バタフライ・ドールについて、もう一度ギルバードに聞いてみるべきか?
「……」
ルークの、そのざまをからかうかのように、白い蝶が目の前を横切る。
ルークはギルバードが嘘をついているのではないかと疑ってみた。しかし自分のことを道化に使って遊ぶほど暇ではないだろうし、あのやつれた表情を見るに、部下が殺されたのも本当に思えるが。このまま手がかりがなければ、他の方法も考えないといけない。
ルークが考え込んでいると、視界の端に何かが動いた。
人の手だ、と思った瞬間に、はちみつ瓶がスッと盗られる。
「あ、ちょ、ま——」
ルークは立ち上がって追いかける。髪の毛がボサボサで、一見して、身なりも貧しい男の子だった。
「待って、それは」
と叫んだ。はちみつではなくて、猛毒が入っているかもしれないのだ。
子供は道を曲がり、脱兎の如く逃げ出す。ルークが曲がると、子供が走る方向に女性が歩いていた。道幅が狭く、子供は女性とぶつかる勢いで突っ込んでいく。女性は子供と、それを追いかけるルークに気づくと、立ち止まった。
「捕まえるか避けて!」
ルークは訴えた。女性は驚いた様子で立ち尽くしていたが、すぐ顔つきが変わった。女性と子供が重なった瞬間、子供が宙に飛んだ——ようにルークには見えた。足払いと手首を掴まれ、投げられていた。
「ぎゃああああ」
子供が叫ぶ、前のめりになって倒れかける。地面スレスレのところで衣服を引っ張り上げられ、顔面はぶつからなかった。少年は瓶を持った方の手首を捻られ、
「イタイ、イタイ」
と言いながら、身動きが取れずにいる。ルークは何が起こったのか、理解するのに時間がかかった。
「人のもの、取ったらダメだって教わってない? 武力行使する前に、やることがあると思うの」
と彼女はたしなめながら(?)小瓶をもぎ取り、片手で回転させてラベルを見る。年は20代だろうか。ボブヘアの黒髪に桜色のピンをつけている。アーモンドのようにクリッとした目をしていて、灰色のトレンチコートを着ていて、黒ブーツを履いている。
鮮やかな捕まえぶりに、通行人が「おお!」と囃し立てた。「お嬢さんすごいな」と通りすがりに見ていたおじさまが、気さくに声をかける。
「治安維持センターに勤めていますので」
と女性が微笑んで返すと、おじさまはゾッとした顔になって去っていった。野次馬になりかけた通行人も、下手に関わりたくないと足早に歩き出す。
治安維持センター。
表向きには庶民の味方を装っているが、その実態は彼らの反応を見ればわかる。それでも、ルークは大して感情を動かさずにいられた。働いている彼らの大半は普通の人間であることを知っているからだ。
「ありがとう、助かった」
ルークは声をかけた。何というか、昨日も今日も走ってばかりいる気がする。
「あんたもはちみつを運ぶ人?」
女性はラベルから目を離すと、意味深長な言葉を述べた。
「なーんて、そんな簡単に見つからないよね」
はあ、とため息をつく。
「バタフライ・ドールなんて」
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