第8話 はちみつ瓶②
「今、何て言った?」
ルークは反射的に尋ねた。
聞き間違えでなければ、この女は確かに、バタフライ・ドールと言った。
ルークの問いが聞こえなかったのか、それともただ無視したのか、女性は子供に話しかけていた。
「さーてボクちゃん、一体全体どんな事情があるのかわからないけど、盗むのは異性の心だけにしとこっか」
と、にこやかに言い含める。それはそれでどうかと思うのだが。
「それとも、刑務所に突き出す?」
女性は影のある表情でルークを見た。
試されている、とルークは感じた。人間性を試して楽しむかのような残虐な光が、黒い瞳の中に宿っていた。
「それは……」
盗みは悪だ。だが、はちみつ瓶をとったくらいで一生をフイにさせるのは、流石に可哀想だ。
そう思っていたら、子供は危険を感じたのかジタバタともがきはじめ、女性の手を振りほどいて逃げ出した。
「あ、逃げちゃった」
と言いながら、追いかけようとはしない。わざとだ、とルークは確信を深める。
警戒心を隠しきれないまま、
「今さっき、バタフライ・ドールと言いませんでしたか?」
「言ったけど?」
それが何か、というように女性は意に介さなかった。微風が彼女の髪を揺らす。
こいつは一体何者なんだ。治安維持センターと言っていたが。ルークは疑わしげに女性を観察する。
「誰から聞いたのか、お聞きしてもいいしょうか」
「あんたも知ってるみたいね?」
女性は、初めてまっすぐにルークを見た。視線と視線がぶつかり合う。彼女の目の底に、何か重大なものが隠されていると直感した。
「……質問に答えてもらいたいのですが」
「父が話しているのを聞いてね、何のことか教えてくれなくて、それを最後に失踪。誰だって真相を知りたいものだと思うけど? そんなことが起これば」
さらりと言われて、頭が追いつかない。
「失踪?」
「そ。うちの父親、センターの捜査部にいたの。だけど多分、死んでる」
普通なら取り乱してもおかしくないことを、この女性は事務情報のようにあっさりと語る。それが少々、薄気味悪かった。
もしかして、ギルバードが雇った人物とか、部下の遺族だろうか。とルークは考える。どんな人間にだって家族はいるものだ。だが、まさかここで出会うことになるとは思ってもいなかった。
「このくらいでいいよね? うちも質問していい?」
女性は小瓶をくるくると片手で回しながら尋ねる。質問されるということよりも、ガラス瓶を落として割らないか、心配になった。
「どうぞ」
「バタフライ・ドールは今、どこにいる?」
「わからない」
「本当に?」
疑っているのはルークだけではないらしい。
「昨日会った。けど、どこかに行ってしまった」
それ以外に答えようがなかった。女性は明らかに落胆した様子を見せた。
「それなら仕方ないね。見つけたらムーンフォリスって店の店長に、伝えといて。直接職場には来ないで。組織には知られたくないの。バレたら最悪追放されるから」
そう一方的に言い終わると、立ち去ろうとした。
「あ、待ってほしい、その瓶を——」
「証拠品として預かっておくわ」
彼女はおもちゃみたいに、くるくるとガラス瓶を回す。
「人の泥棒は注意しておいて、それかい?」
「あら? だって預かるだけだもの。しばらくの間」
「それは困る」
「毒でも入ってるの?」
戯れに言っただけなのかもしれない。だが、ルークが一瞬たじろいだのを見て、図星だと受け取ったらしく、ニヤリと薄紙のように微笑んだ。
「入ってるね。それはよかった。蝶をおびきよせるには蜜が必要なの」
「とりあえず、返してくれないか」
「黙ってくれてありがとうの間違いじゃない? 毒を持ち歩いている状況を把握しなさい。罪なんて作り放題なのに」
黒い瞳が、また挑戦的に細められた。
「ただのはちみつだったらどうする?」
ルークは牽制しようと思い、言った。このまま彼女の思い通りにいくのが気に食わなかったのもある。それにしても、どうしてこうも倫理観のない人間が多いのだろう。
女性は黙った。それから、
「チーズトーストに塗って食べようかな」
とゆるんだ顔で言った。
気が触れている。毒だと疑いのあるものを、わざわざ食べようとするだろうか。……いやそもそも、預かり物を、食べるなよ。
「もちろん、ただのはちみつだったらね。やっぱり預かってあげる。あんたが持っていたら危険な気がするから。それじゃ」
「ちょっと、待て」
と言いかけたが、女性は威圧的な短い視線をルークに浴びせた後、
「知らないうちに引き返した方がいいかもね」
踵を返した。
「命が幾つあったって、足りないものもある」
空いている片手をヒラヒラと振りながら去っていく。
「いったい何なんだ」
ルークは悪態をつかずには言われなかった。取り返すべきだったか? 刑務所や罪ははったりなのか、本気なのか。わからない。ろくに手も出せなかった。
これだから権力は嫌いなんだ、と言いたくなった。
しかし、いずれにせよ、はちみつ瓶が取られたという事実だけは、残った。
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