第19話 逃走

 後ろから走る音が迫り来る。一人……いや、二人だ。

 振り向くと、体格の良い男性が追いかけてくる。ジョギングの最中だったのかラフな格好をしているが、見るからに誠実そうだ。おばちゃんの声を聞きつけて捕まえようとしているのだろう。もう一人はそのおばちゃんだが、すぐにゼエゼエ言って走るのを諦めていた。

「ちっ」

 善意も誤解に基づけば悪行になりえる。まさしくその典型例だと、自分を棚に上げて言いたくなる。

「そいつを捕まえてくれ!」

と男性はよく通る声で言った。

 その声に、前方でペンキ塗りをしていた中年の男性が反応する。しかし男性はペンキのローラーを手に持ったまま固まっていた。どこに置こうか迷ったのかもしれない。

 その隙に通り過ぎ、角を右に曲がる。

 どうやったら上手くまける?と神経を集中させる。視界には花壇、旗、二階バルコニーに物干し竿……右前方には布テントを立てて半分まで歩道を占領している日用雑貨店が見えた。いろんな樽に商品を突っ込んでいるが、その中の一つに山積みのイガグリがあるのを見逃さなかった。

 奥にいるのか、店主の姿は見えない。好都合だ。

「悪いね」

樽ごと引っ張り、蹴倒すと、地面に大量のイガグリがコロコロと転がり、散乱する。

 背中から、

「卑劣だ!」

怒号が聞こえた。こんな状況で卑劣もクソもあるものか。

 また角を曲がる。今度は左へ。十字路をジグザクに曲がっても、体力的には相手に分がありそうだ。それなら——と思っていると、前から木箱の荷台を乗せた二頭立ての馬車が走ってくる。それをみて、ルークはひらめいた。

 ——一か八かだ。

 ルークは馬車と自分との距離を何度も見極め、今だ、と飛んだ。

 伸ばした右手が枠木を掴み、片足が乗った。馬車の揺れに振り落とされそうになりながら、なんとか体の重心を移動させ、荷台のへりに乗ることができた。

 これでどうにかなりそうだ。ホッとしているうちに、追手の後ろ姿が見え、遠くなっていく。

 追手の男は突然姿を見失って速度を緩める。しかし気づくのも早かった。左右に首を動かし、次に後ろを振り返る。

 すぐにルークを見つけ、

「その馬車、止まれ! 止まれ!止まれぇ!」

と何度も叫ぶ。

 鞭打つ音と共にヒヒーンと馬がいななき、荷台が激しく横揺れした。完全に停止する前にルークは飛び降りると路地に入り込む。

 薄暗い路地で用心深く周りを見渡しながらコートを脱ぎ、右腕にかける。それから、握っていたチョーカーをコートのポケットに突っ込んだ。

「ハア……ハア……」

息切れしているところに、

「こっちだ」

また声が聞こえた。足音は二人以上。増えている。まったく、警察並みの正義感だ。これだけ律儀な人が多いなら、センターがなくても良くないか? それとも他のは野次馬か。

 ルークは建物の影に隠れて、息を潜める。

 追手が路地に入った。

 どうか気づかないでくれ、と願う。心臓が激しく胸打ち、肺が酸素を求めているが、必死に抑えようとする。これでバレたらおしまいだ。

「……?」

足音が止まった。気づかれたか、と肝が冷える。

「いないですね」

「そうだな」

ほんの数秒のはずなのに、沈黙の時間は長く感じた。

「二手に分かれよう。あっちとこっちで」

と言って、路地を通り過ぎていく。

 助かった。

 ルークは肩の力を抜いた。

 入ってきた路地を出ると、止まったのはいいものの、そこで放っておかれている御者と目が合った。

「止まれと言ったのは君かね?」

「いえ、他の人ですよ。僕はそんなこと言いません」

むしろ走り去ってくれた方が良かったくらいだ。と心の中でつけ足す。

「はあ」

御者は要領を得ない表情で肩をすくめると、もう一回軽く鞭を振り上げた。馬はトコトコと歩き始めた。

「空耳ですかな」

馬車は徐々に小さくなり始める。

 追手がルークを見つけられずに引き返してくるのは時間の問題だ。馬車が行った方向に、ルークも早歩きを開始した。

 歩いている間に、少し精神的にも落ち着いてくる。

 だんだんと、自分がショックを受けていることにルークは気づいた。目の前で人の形が崩れていったのを思い返すと、今更ながら、生理的嫌悪感が浮き出てくる。

 それに、あのおばちゃんが、いつから目撃していたのか気づかなかった。おばちゃんから見れば、女の子を押し倒しているようにしか見えなかったかもしれない。

 でも、それがなんだっていうんだ。じゃあ僕はあの状況で大人しく死ねというのか。そもそも人さらいって言うのもおかしい。どうやって人を一瞬で消すんだよ。僕が魔術師か何かだっていうのか。狂っている。おかしいのは世界(バタフライ・ドール)の方であって僕じゃない。男尊女卑なんて言葉があるけど大嘘だ。こういう時に人権がなくなるのは、ほぼ確実に男の方だ。

 くどくど思いながら歩いていると、背後から気配を感じた。気が立っているから気のせいかもしれない。

 しかし、振り返ってみると、気のせいではないことがわかった。

「よう、また会ったなあ?」

見覚えのある、しかしあまり会いたくはない顔だった。

 ボレードはニカっと歯を見せる。くすんだ緑の襟付きシャツにカーキ色の長ズボン、乗馬用かと思うような黒のロングブーツを履いている。だが、服に皺がよっているし、色も微妙に合っていないし、何となくセンスが良くないと感じた。真っ昼間で目立つからか、さすがに、あの大きな大刀は持っていないようだった。

 人目をはばからず、普段通りの様子でボレードは告げた。

「貴様がほっつき歩く間に、殺してやった」

「誰を」

反射的にルークは質問する。

 ボレードはニタリと笑いを浮かべながら、答えた。

「犯人をな」

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