第13話 答えのない友情
いや、まだ誰とは言っていない。ルークは念には念を押して訊ねてみる。
「彼女って……」
「マダラさんだ。どこを探してもいない」
やっぱりそうだったか、とルークは思い直した。ラゼルの奥さんが脱走して家出したとなったら、それはもう隕石が降るような出来事だし、この状況ではマダラ以外にいないだろう。
わかってはいた。わかってはいたけど、受け入れたくなかった。
ラゼルの焦りが伝わってきて、ルークも段々と目が覚め、頭が回り始める。
マダラが脱走した?
何のために?
どうして今?
話が見えてこない。
「どこに行ったんだ……」
と、ルークは愚痴をこぼす。
「わからない。さっき話してたじゃないか。心当たりはないのか?」
心当たりと言われて、ルークは一瞬、ギルバードの屋敷を思い浮かべたが、場所を教えていない以上、行けるはずがない。
「いや」
と首を振る。
「むしろ僕は、外出しないように注意したつもりなんだけどな」
「そうなのか」
ラゼルはルークなら知っていると思ったのだろう。少し意外そうだった。お互い、マダラの行き先がわからないのは同じらしい。
ルークは半ば本能的に、頭の中で段取りを組み立て始めた。
一日の計画を組み立てるのは、ルークの習慣になっている。もちろん、組み立てる能力とそれを完璧に実行できる能力は別物だ。「自分の気まぐれ」と「他人の気まぐれ」という不確定要素が存在するからだ。今回の場合、マダラをギルバード伯爵まで届けるという計画の動線は、マダラが自由意思を発症したためにフイになりかけている。
もうバタフライ・ドールが嫌いになりそうだ。
「とにかく……ラゼル、君の家に行くよ。まだそんなに遠くに行っていないはずだ。話は道中で聞く」
「わかった」
ルークは玄関近くにかけてあったコートを持ち上げて羽織ると、すぐに外に出た。
ラゼルと並んで歩き始める。二人ともいつもより早歩きだった。
ルークは矢継ぎ早に質問し始める。
「いつからいなくなってた?」
「妻が気付いたのがついさっきだ。だからそれより前になる」
「出て行った理由は何だと思う?」
「うーん、それがわからない。わかれば探せるんだけどな。一言も言われなかったんだ」
彼女、一言も言わずに出ていくようなタイプなのか、とラゼルはショックを受けているようだった。再び同じ疑問をボソリと口にする。
「どこに行ったんだろうな」
「本当に」
ルークは肩をすくめてみせた。
もしあるとすれば、グレイという人物の手がかりが見つかったのかもしれない。蝶と会話ができるのなら、それもあり得る。もしくはセンターに行ったか……憶測で考えても、答えは見つからない。
「……なあ、マダラさんは結局、アンだったのか?」
しばらく沈黙が続いた後、ラゼルは言いにくそうに口を開いた。
アンだったら……申し訳ない、という気持ちの方が強いのだろう。
事情があって抜け出しただけで、マダラはすぐに帰ってくるかもしれない。だが、帰ってこない場合もある。
ラゼルはまだ、彼女がアンという可能性を捨て切れていないのだ。もしマダラがずっと帰ってこなければ、ルークに「妹が戻ってきた」という叶わぬ希望を見せることになってしまう。そのことで胸を痛めているのかもしれない。
その気持ちがなんとなく伝わってきて、
「いや、他人の空似だったよ」
ルークはできるだけ淡々と答える。
「そうか」
ラゼルはどこか、ホッとした様子だった。
それでいい、とルークは心のどこかで思った。ラゼルがとてもいいやつだと知っている。知っているからこそ、余計なことで心を煩わせたくない。
太陽は傾きかけているが、まだまだ明るかった。日中は暑い。直射する日光が、二人の影を色濃く作る。
ルークは見つかった後について考え始めた。
結局のところラゼルは、マダラが妹のアンかどうかにかかわらず、ギルバード伯爵の所へ連れていくのには反対するだろう……ルークはそう予想した。
ラゼルは直接ギルバードと話したことはない。ルークの今までの説明が悪かったのかもしれないが、「ギルバードに会うこと」イコール「ルークにとっての悲劇、不幸」と思っている節がある。実際に、命スレスレのところで死にかけたこともあるから、全部が全部、間違いではないが。
そもそもギルバード伯爵にわざわざ会いに行って重い任務を受けるのは……ルークは考える。自分への当てつけも、きっとあるだろう。アンが死んだのに、自分だけが何もなく、平穏な日常を生きている。神がいるなら、何故こんな運命を自分に与えたのか。何故自分だけがのうのうと生きているのか。少し前までは、そう真剣に考えていた。しかし既に今は、何故、と問う心に蓋をしている。
「でもまあ、ずっとマダラさんを家に泊めておくわけにもいかないだろう。いろいろと負担はかかるわけだし」
途切れかけていた会話をルークは続けた。
ルークはマダラを家に連れて帰っていない。それをどう受け取っているのだろう、と気になった。あの時ラゼルは一階で仕事をしていて、ルークが別れの挨拶をしたのはラゼルの妻とであった。
「確かに言われれば、そうだよな」
ラゼルは苦笑まじりに表情を崩す。彼の気持ちとしては、マダラが望む間はしばらく泊めてあげたいと思っているかもしれない。しかし現実問題、女の子一人を養うのにも経済的負担はかかる。マダラの場合バタフライ・ドールだから、はちみつ一瓶で一ヶ月くらい生きていけるのかもしれない。そう考えれば食費が浮くのでかなり経済的だが、ラゼルはそのことを知らないだろう。知らないなら、それを前提に話すだけだった。
「もしあれだったら、僕が保護しようか。僕の家なら一部屋空いているわけだし」
「その前に、片付けた方が絶対いいと思うけどな、部屋」
それとなく話を持っていこうとすると、すかさず言い返された。月を追うごとにひどくなっているルークの家の状況を、ラゼルは知っている。
「……それはそうだけど。いやまあ、一時的な話さ。彼女もここで生きていくんだったら、職は必要だろう」
痛いところを突かれたせいで、つい言い訳じみた言い方になってしまう。ラゼルは不思議そうにルークを見た。
「そこまでするつもりとはな。妹じゃないんだろ?」
「だからこそ、さ」
ルークは口角を上げ、空を見上げた。
「他人には思えないんだ。マダラさんのことが」
嘘だった。今となっては他人にしか思えない。
「そうか」
しかしラゼルはその言葉を文字通りに受け止めたようだった。
生きるなかで、随分と嘘が上手くなったと自分で思う。昔は胸がチクリと痛んだのかもしれないが、今はもう、割り切ってしまっている自分がいる。
ラゼルの家は割合近い。話していたら一瞬だった。中に入ると、
「あ、ルークさん」
とラゼルの奥さんが声をかける。
「すみません。妹さん、うっかりしていたらこんなことに……」
どうやらマダラのことを、まだルークの妹だと思っていたらしい。
「いや、いいんですよ。きっとすぐ戻ってきますって」
ルークが妹のところを訂正しないのを見て、ラゼルは何か言いたげな表情になった。しかしすぐに思い直したのか、呆れた調子で、
「お前のそういう、妙に楽観的なところ、見習った方がいいのかもな」
「え、楽観的かい?……そっか。君に分けてあげられないのが残念だ」
「やっぱ面倒そうだから要らん」
「ちょっと、それはないだろ」
と笑い合ったが、ルークはやはり、心からは笑えなかった。
ラゼルの奥さんはそのやりとりをニコニコしていたが、
「ねえ聞いてよ」
ふと大事なことを思い出したように、ラゼルの肩近くでポンポンと手を叩く仕草をする。
「なんだか手がヒリヒリするんだけど」
たわいもない会話のはずだった。しかしルークには、マダラと無関係だとは思えなかった。
視線を動かすと、リビングの机に置いてあったティーカップが片付けられている。
「まさか……」
ルークはほとんど音にならない声で呟く。それから、あのやろう、と心の中で悪態をついた。自分の知り合いにまで危害を加えようとしてきたのかと思うと、無性に腹が立ってくる。
マダラの触ったカップに、毒がついていたのではないか? そして飲み終わったカップを運ぶために、素手で触った。
「カップに毒がついていたんじゃ……」
「もう、ルークさん、大袈裟ですよ」
と奥さんは陽気に笑い声を立てる。
「よく水で洗い流しましたか? アルコールで除菌した方が……医者に診てもらった方が……」
「でも——」
「何かあってからだと、遅すぎる」
ルークの真剣な態度に、ラゼルの奥さんもだんだんと不安色に染まっていく。その表情にルークもハッと我に帰って、
「あ、いや、気にしないでください。そこまで大した痛みじゃなければ、きっとすぐに治るんだと思いますし」
と、できるだけ深刻な雰囲気にならないようにフォローする。
「……」
しかし、意見を訂正するには少しばかり遅すぎたらしい。ラゼルは黙ったままルークを見ていたが、
「ルーク」
わざわざ名前を呼んだ。眉間に皺が寄っている。疑われているのは確実だった。
「何か隠してないか?」
「……アンのことを思い出してしまっただけだよ」
「それだけじゃないよな?」
「……」
怒っているんじゃないかと思うほど、ラゼルは深刻な表情でルークを見つめる。ルークが思わず目を逸らそうとすると、
「何を隠している?」
重ねて聞いてくる。
「……」
ルークは答えられなかった。図星だったから、というだけではなかった。ラゼルには偽るものがない。ラゼルの言葉も態度も、真心から出てきたものであることは、ルークが一番わかっている。
だからこそ、言えないのだ。
「話してくれない、か……」
ルークが答えずにいると、ラゼルは心底悲しそうに表情を緩めた。
それが見ていられなくて、ルークは吐き出すように言った。
「違う——でも聞かないでくれ。信じてくれなんて、都合のいいことは言わない。彼女を見つけたら何も言わずに僕に引き渡して欲しい。あれは君にとっても、僕にとっても……毒だ」
……ラゼルが親身になってくれたことはありがたいと思っている。
わかっている。本当のことを言えば、もっと悲しむだろうということも。
良心の呵責はどこかで感じているはずだ。仮に嘘がバレて信用が失ったとしても、自分にはそれがお似合いだと、どこかで思っている。
拒絶されることを覚悟して、俯く。ラゼルが何を言おうと、ルークは自分の決断を変えるつもりはなかった。
「わかった」
ラゼルの返答に、ルークは顔を上げた。
「それと、信じるよ、ルーク。都合なんてどうでもいい。俺ら、友人だろ?」
ラゼルの目はどこまでもまっすぐだった。その視線に耐えきれなくて、ルークは声を震わせた。
「ごめん……」
ありがとうの前に、その言葉が出てきた。
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