第44話
カラリと乾燥した冬の朝、軽食のパンを買った帰りに、住んでいる家の貸し主に捕まった。
「お、ルークさん、ちょうどいいところに」
と言いながら待ち伏せしていたのだろう。冷たい風に吹かれて耳を真っ赤にしながら、貸し主の男性は両腕をガッチリ組んで待ち構えていた。
「今月の家賃、まだ払ってないよね」
「ああ、そういえば」
そうだった、と思っていると、図々しいとは思っているんだけど……と遠慮気味に追加注文してきた。
「あとよかったら来月分も一緒に払ってもらえないかな」
「また負けたんですか」
ルークは苦笑した。貸し主は賭けスポーツにハマっている。
「次こそは勝てる気がするんだ」
信憑性のない意気込みを返してきた。それに対してルークは半分冗談ながら、無責任に煽った。
「勝ったら奢ってほしいかな」
「もちろんだ」
と、人のいい笑顔でニコニコしている。
「それは頼もしい、大いに期待して……」
と言いながらルークはその場で手渡した。貸し主は結局、一ヶ月分の家賃だけを受け取っていた。微妙な顔をする貸し主に、ルークは笑顔を崩さず、
「来月はまた今度払いますよ」
と言ってのけた。
金欠ではない。でも、火急の用事以外は、あまり滅多に散財しないようにしている。お金があっても無いように暮らすのが、破滅しない人生のコツだと思っているからだ。
家に帰る。
「ただいま」
いつもの癖で、誰もいない空間に向かって挨拶をする。もちろん返事はない。
玄関のドアを閉めると、テーブルの上に焼きたてパンの入ったバケットを置いた。
人生の大半は、何でもない日常で埋め尽くされている。だが、同じ生活をしていても、心が違えば、違うものが見えてくる。
ラゼルの家にはちょこちょこ顔を出している。謝ろうと思ったが、その隙がないくらい歓迎された。ハムハムヘッドには、まだ行けていない。近いうちに、行けたら行こうと思っている。
ギルバードからは、何も連絡はない。あの体験を整理しきれていないからかもしれない。一緒に飲もうと誘われても行く気はさらさらないが。ルーク自身も、心の整理がついたかと言われれば怪しい。
解決した問題はそれほどない。いや、ほぼない。変わったことといえば……。
部屋が綺麗になった。家は前よりも綺麗になった。何となく片付ける気になって、ラゼルや友達を呼んで手伝ってもらった。「うわ、こんなになってんのかよ」と盛り上がった。
若干まだごちゃごちゃしているが、人を家に呼べるレベルにはなったと思う。祭り騒ぎのように片づけた後、みんなで飲んだ。
また同じ日常が戻ってくる。生きていれば、何かを得ることも、失うこともある。なくなった過去は変わらない。でも僕が生きているのは、「今」だ。そう思ったから、少し変化をつけたくなった。
コートのブラシをかけて埃を落とし、ハンガーにかける。一息ついていると、突然、小さな音が聞こえた。誰かが玄関のドアを、遠慮がちにノックしている。
今朝も一人、財布を忘れたとか言って取りに来た。ルークはまた友達が来たのかと思って、
「またか、開けると寒いんだよ。忘れ物?」
と軽口を叩きながらドアを引き開けると、思いもよらない人物が立っていた。
「マダラ……?」
一瞬、本人かどうか迷った。黒いカシミヤの防寒具を短く切りそろえられた髪の毛が風に揺れる。寒そうに両腕で自分の体を抱えている。ルークの視線が上から下まで泳いだ。それから、首元で止まる。
あの目立つ色の赤チョーカーが、ない。
マダラはルークと顔を合わせても、何を考えているのか、硬い顔をしていた。
「マダラ、だよな……?」
よく似た別人、という可能性を打ち消すために、そう言った。
目の前にいるのに理解できなかった。リラ図書館で研究のために解体されそうになった挙句、暴走して殺されたのではなかったのか。その一部始終をルークは見ている。すると、目の前にいるマダラは一体……何者なのか?
マダラは軽く頷く。それから、何かに追われているように、警戒した様子で左右を見渡した後、
「話したいことがあるの」
と早口で言った。
「ルーク以外に、頼れる人がいなくて……」
と、申し訳なさそうに、蚊の鳴くような声で言う。
その姿はいつもより小さく見えた。
自分以外に……? どういう意味だろう、と考えていると、
「中で話してもいい?」
マダラは聞いてきた。
「ああ……」
何かの罠かもしれない。それでも、だ。ルークは思う。寒い冬の外を、一人で立たせるのは……良心に負けて、ドアを大きく開けると招き入れる。
「さあ入って」
まさか、ね。とルークは思わずにいられなかった。最初に入れる女の子がマダラになるとは。
ソファに放っておいた服をどけると、そこにマダラを座らせる。マダラは暖かそうな上着を脱ごうとはしなかった。よほど寒いのだろう。と思って、クッションを渡すと、それを抱きしめるようにうずくまった。
ルークは少し危惧したが、妹と一緒にいる空気感ではなく、ちゃんと他人を入れている気分になっていることに安心した。
少し距離を置いて同じソファに座ると、自然にガラス窓に視線が行く。街の空と並木が見える。そのガラス窓に蝶がぴたりと張り付いた。おそらくマダラに反応しているのだろう、と自然にそう考えるくらいには、慣れた。
「君の仲間がいるね」
緊張をほぐすために言ったつもりだったが、マダラはちらっと目視した後、視線をそらした。
「……もう、そんなこと言えない」
と言ってクッションに顔をうずめる。
それがどういう意味かわからなかったが、余計に空気が重くなったことだけはわかった。
「リラ図書館で何があった?」
「知ってるはずでしょ?」
「いや、何も知らない。君がどういう状況なのか」
どうやら本気で聞かされているものだと思ったらしい。マダラは意外だと言いたげに、瞳を見開いた。何があったのかは知らない。ただ、一つわかるのは、もうその瞳には前まで持っていた、底なしの楽観思考を宿していないことだ。
「これがなくなったってことは、どういうことか、わかるでしょ?」
首元を指した。ルークは口にして指摘するかどうかはともかくとして、気になってはいたから、マダラがチョーカーのことを言っているのは、すぐにわかった。
なくなったことが、何を表すのか?
残念ながらわからない。ルークが他のバタフライ・ドールのチョーカーを取ってしまった時は、人の形を失い、蝶に戻っていった。なのにマダラはどうして維持できているのか。その方が疑問だった。
「大切なものだったんだね」
「私にとっては……だって、私はもうあなたたちの言う、バタフライ・ドールじゃない。人間でもないの。ただの自立人形にさせられたのよ」
ルークには、いまいちどういうことなのか分からなかった。とりあえず、マダラがショックを受けているようだということはわかった。
「それから……」
マダラは続きを話しかけて、言葉を詰まらせた。黙ってしまう。
「それから?」
「やっぱり怖いの。だって、でも——」
言うのに躊躇していることがあるのだろう。
言いかけて黙られると、気になる。それに伝えたくないと思っていることの方が、本当は伝えた方がいい内容だったりする。
それなら、自分が聞く姿勢を作ることが大事だと思った。
ルークは落ち着いて、彼女の手を取った。
「ここにきてくれたってことは、少なくとも僕を信じてくれたってことだろう? 言える範囲で構わない。話してごらん」
そう伝えるとマダラは、勇気が出てきたようだった。
「……お願いがあるの」
まっすぐにルークを見た。その視線に、何か普通じゃないものを感じて、気後れがした。ルークにしか頼めないと言ったことと、何か関連があるのか?
そして案の定、とんでもないことを口走った。
「私を殺して」
その言葉があまりに本気で、ルークは受け止めきれず、
「いや、また極端だなあ」
と茶化してしまった。その途端、マダラの表情が曇って、しまったやらかしたと思った。
「だって、きっとこの話をしたら、ルークは私を恨むはずよ」
「どんな内容だい?」
「他の……他のバタフライ・ドールを連れてくるように言われたの」
思いがけない話に、ルークはすぐに反応できなかった。驚いてじっとマダラを見る。
「わた、私がリラ図書館から出られるようになった代わりに……」
それがマダラにとっては死刑宣告と同じだというふうに、言葉を震わせた。
言いたいことはなんとなくわかってきた。
マダラが知っているバタフライ・ドールといえば、それはシエナの実家にいる。いなくなればシエナが悲しむかもしれない。
それでルークが恨むと言うふうに考えたのだろう。
……。
「それって期限はあるのかい?」
「え?」
予想外の角度からの質問に、マダラは戸惑った様子を見せた。
「いつまでにってことを、言われているのかな」
「言われていないわ」
「なら、いいじゃないか」
と言って、笑って見せた。それから立ち上がる。
「はちみつ以外でもいける口かな」
「ええ、一応……」
「お、いいね。最近友達から譲ってもらったのがあって、一人で飲むよりは誰かと、って思っていたんだ。戻って来れたお祝いに、どうだい?」
マダラは状況を掴めていない様子で。
「で、でも……」
と言いかける。
「これからのことはゆっくり考えていけばいい。一度忘れてから考え直しても遅くはないよ」
確かに、マダラが人に迷惑をかけるのだったら止めないといけない。そして許すことができなくなるかもしれない。しかし、わざわざ言いにきてくれたと言うことは、マダラに他人を害したいという意思はないのだ。どうにかなるかもしれない。
それに、弱っている姿にとどめを刺すのは、僕のポリシーじゃない。
机の上にボトルを置いた。それからグラスコップを二つ用意する。
「それ、何?」
「結構いいやつ。ブリュターン産でね、そんなに癖がないから飲みやすいと思う」
マダラはじっと、グラスに注がれた液体を見る。アンはお酒に対してはちょっと嫌がっていたから、嫌がられないのは嬉しい。
ルークは先に傾けながら、朝食用に買ってきたパンとつまみ合わせた。渋みの中に広がる澄んだ味わいに、体が温まってくる。
マダラはじっとグラスを観察した後、おそるおそる持ち上げ、口をつける。
「……苦い」
どうやらお気に召さなかったようだ。
「そうかな。味覚はそれぞれだからね」
不思議そうにルークとグラスを交互に見た後、テーブルの上に戻した。それからクッションを持ち上げ、再び両手で抱いた。
「私、間違ってたかもしれない」
マダラはまだ、悩みの途上にいた。
「図書館に行きたいなんて言わなければ、こんなことにはならなかった……」
「でも行ったから掴めたものがあるだろ? それで手が傷だらけになるかもしれないし、望んだものじゃなかったかもしれない。でも掴み取ったものは掴み取ったものだ。それと一緒に生きていく以外ないんだよ。それが僕のものになった以上、僕はそう思っている。あまり後悔はしたくないからね。後悔はもうゴメンだ」
偽りない感情だった。そう思って生きていくことに、ルークは今、意義を感じようとしていた。マダラは黙って見上げながら話を聞いていたが、
「……ルークのこと、誤解してたわ」
しばらくして、視線を窓に向けた。そこにはもう、蝶は止まっていなかった。
「妹さんを車で轢いた犯人、復讐したんでしょ?だからきっと私のことも……」
「何の話だ?」
全く話の流れが掴めず、ルークは聞き返す。マダラは疑いのこもったまなざしでその質問に答えた。
「教えてもらったの。忘れているなんて嘘でしょ? だって2年前……」
「誰から聞いたんだ、それ」
「ホン、から」
「そっか……」
それ以上の言葉が出て来なかった。
そんなことが起きるものなのか。思ってもみなかった。二年前、火が轟々と燃える現場で、二階から突き落としたあの貴族が、妹のアンを轢き殺した犯人だということは……。それが事実だとして、それで自分の行為に正当性を見出すのはおかしい。
それで心が軽くなってはダメだと自分に言い聞かせる。
「ホンが嘘をついたかもしれないじゃないか」
だからか、そう言ってしまった。
「……私にはわからないわ。もう、何が嘘で、何が本当なのか」
「嘘も本当も、受け取り手次第さ」
そうルークは言ってみせた。
「なぜって、それが僕たちの生きている社会だからだよ。誰もが君に都合がいいわけじゃない。単純な好意も、悪意も存在する。でもその中で君が本物だって思ったものはさ、それは君の掴み取った真実になるんだ。他人がどうこう言おうとね」
それを真実だと信じる以上、その人にとっては絶対的な価値となる。
マダラは俯きながらルークの話を聞いていた。
「……それを聞くと、余計わからなくなってきたわ。私は誰のために生きてきたのかしら。蝶のためって言っても、結局自分勝手……」
「それが人間だよ」
ルークは軽く笑った。
「それに気づけたなら、君も人間に近づいたって証拠だ」
と言いながら、親しげにマダラを見る。マダラはまだためらいながら、斜め下を見ている。
「人間って、もっといいものだと思っていたわ」
「悪いもんじゃないよ」
グラスを傾ける。やっぱりこれはうまい、大当たりだ。
「自分勝手に誰かを守って、人に優しくできたら楽しいとは思わないかい?」
別に仕事でマダラに優しくしているわけではない。バタフライ・ドールを保護する。その仕事ならすでに終わっている。しかも、それで何かを得られたわけじゃない。
だから僕が誰かに優しくするのは、誰かに言われてじゃない。これは僕自身の好意だ。
ルークはそう思った。
「……!」
マダラは驚いた様子でルークを見た。そんな顔をしているマダラに、手を差し伸ばす。
「だからマダラ、君が人間になりたいって言うのなら、僕は君の気持ちを尊重するよ」
この気持ちこそ、僕にとっては偽りない真実なんだ。
マダラはまた、視線が泳いだ。けれども、
「おかしな人」
と最終的に笑みをこぼして、その手を取った。
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