第43話

 ホンは白い手袋をはめた手を、マダラの首元に近づけた。その先には、チョーカーがある。

 見ているこっちがゾッとする思いがした。

 マダラは咄嗟にホンの腕を掴む。力任せに引き離そうと抵抗する。しかしホンはその手を払いのけもせず、強引にチョーカー触ろうとした。ぴっちりと服を着ているホンには、マダラの毒は関係ないのだろうか。そう思わせるくらいには、ホンの表情は陶器のようにピクリとも動かなかった。

 ホンの方が、人形に見えた。

「イヤッ!」

 マダラは避けようと体を後ろへ逸らし、ベッドに倒れ込むが、それ以上逃げられなかった。

「制御装置がこの辺りにあるはず」

 胸に埋め込まれたケースにある、動かない装飾だと思った蝶が、激しく動き始める。羽音は聞こえないが、それがマダラの悲鳴を鮮明に表しているように見えた。

「やめて、やめて——!」

マダラは絶叫する。チョーカーを外される恐怖——憧れだった人間から離れてしまう。ただのものも言えぬ蝶に変わってしまう——。それはマダラにとっては、死以上に恐怖するものだったのだろう。

 ルークは自分の手が震えているのに気がついた。

 違う、関係ない。アンとは関係ない。もう終わったことで、今は関係ない。

 そう思っても歯止めが効かない。どうしても、負の感情が蘇ってしまう。

 僕が守らなかったせいで。アンは死んだ。もっと優しくしておけばよかった。もっと優しくしておけば、ああはならなかった。なんの論理性もない、ただ感情だけの感傷。勝手に傷ついているだけだと周りが言おうが、これは僕にしかわからない、この苦しみは……でも今マダラは、それ以上に苦しんでいる。

「嫌がってるだろ!」

感情に突き動かされて、張り詰めた大声を出したのと、体が動いたのは、ほぼ同時だった。気がつけばルークは、猛ダッシュでホンを横に突き飛ばした。

 自分でも押した瞬間、我に返って呆然とした。両手の感触が伝わってくる。触ってはじめて、柔らかい肌を持つ人間だったんだとわかった。それがわかるとなぜか落ち着いてきた。相手も人間だとわかったからかもしれない。

 ホンは尻餅をついて、何が起きたか分からずにぼうっと見上げた。

 しかしルークはそのままマダラに声をかける。

「マダラ、大丈夫か?」

「大丈夫なわけないでしょ!!」

マダラの大声が部屋中に響く。興奮状態に陥っているのは明らかだった。すぐに敵意に近い鋭い怒りを、ルークに向ける。その怒りは、傷ついているからこそ出てくるものだと、ルークにはよくわかった。

「僕が悪かった」

 だからルークは、目の前にいる彼女に、正直になろうと思った。

「その通りよ……!」

 マダラにとってルークの行為は、裏切り以外の何物でもなかった——自分を助けると偽った。仲間だと、同じ被害者だと言ったのに——ルークがマダラに伝えた言葉は、完全な嘘のつもりはなかった。しかし100%本心でもなかった。その100%ではなかった部分を、マダラは取り返しのつかないくらい大きな裏切りだと感じている。

 ルークも、そのことがわかっていないわけではない。

 いや、わかっていた、マダラが何を望んでいたかなんて、最初からわかっていた。

 だけどそれを邪魔していたのは、いつだって自分勝手な感情だった。

 自分がよく見られたいから、本当のことが言い出せなかった。

「ああ、だから聞いてくれ。マダラ、ずっと黙っていたことがある」

ルークはマダラをまっすぐに見る。

 彼女と関わりを持つ間に、直接こんなことを言うとは思わなかった。そう思いながらも、不思議と心が静かになっていくのを感じた。ようやく過去の感情が、置かれるべき居場所を見出したように思えた。

「ずっと君のことが憎いと思っていた。なぜだろう……アンに見えた自分が許せなくてね。君さえいなければイヤなことを思い出さずに済んだのに、散々苦しめられたよ」

君さえいなければ……それは認めたくない本心だった。

 だけどそれは紛れもない本心でもあった。

 誰だって他人にいいツラしたいに決まっている。よく思いたいし、思われたい。

だけど、そんな聖人君子じゃない自分が、そんなことはできない。信じられないと思っている相手が目の前にいるのなら、僕の本心をぶつけるしかない。それが自分にできる唯一のことだと思った。

 まさかそんなことを言われるとは思っていなかっただろう。マダラは唖然として話を聞き終わった後、目に怒りではなく悲しみが震えていた。

 マダラが何か言いかけようとする。しかしルークはそれを遮るように、続きを言った。

 話は、まだ終わっていない。

「けど! 僕が人として成さないといけないことを教えてくれたのも、君だ」

 目の前に困っている人がいるときに、どうすればいいか。

 それは簡単な答えだった。

 それが自己満足に過ぎなかったとしても、自分ができることは、自分の傷を抱えながら、誰かに優しくすることだ。

「帰ろう、マダラ」

ルークは手を差し伸べる。

 マダラはルークの言葉が終わるまで黙っていた。しかし、

「そんなこと、そんなこと、あるわけないじゃない!!」

溢れ出した感情が声を震わせる。怒っているのと泣いているのが混じった顔で、その感情をぶつけた。

「——ふっざけんじゃないわよこのバカ!! 私のことなんだと思ってるの、ていのいい道具としか思ってないんでしょ。分かってないことないわよ!」

「他に方法はあるはずだ、君が助かる方法は」

しかしルークはそう言い切った。

「人類の叡智が集まっているのなら、あるはずだろ?」

そう言ってホンを見る。

 彼女とは本質的に相容れないものを感じる。その感情が、むしろルークの納得がいかないという思いを掻き立てた。ホンから、マダラは人間ではないと指摘されたことで、逆にルークは、何かが吹っ切れた。どうでもいいじゃないか、マダラはマダラだ、と気がつけば思っていた。

「……あります」

はじめて苦虫を噛みつぶしたような顔になった。ルークはそれを一瞥すると、

「じゃあ、その方法を教えてくれ」

と尋ねる。

「それが僕が、リラ図書館で知りたいことだ」

「……!」

 ルークの真意に気づいたのか、マダラは沈静化してきた。

 これで、事が収まる、そう思った。

 しかし、ホンの目が鈍く光った。

「それ相応の対価はあるのでしょうね」

「対価?」

聞き返しながら、意味を理解しようと視線が彼女に釘づけになる。

ホンは立ち上がりながら説明した。そして塵を払い落としながら説明した。

「具体的に言うのでしたら、知識提供です。私も興味があるのですよ。叡智とはどんな形をしているのでしょう」

 何も変わったことを口走ったわけではないはずだ。

 しかし、ゾクっとくるものをルークは感じた。小さな体に、恐ろしく大きな影が潜んでいるように見えた。

「僕は大したことを知っているわけじゃないけど」

「価値があるか価値がないかは、あなたが決めることではございません。リラ図書館があなたを判断します」

と言いながら、薄気味悪い笑みを浮かべた。

 ものすごく嫌な予感がした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、それって——」

言いかけた途端、パン、と乾いた音が聞こえた。

 開かれたままの扉を見ると、レミィが立っていた。両手に何かを持っている。絵でしか見たことがない黒い筒状のもの——それが何を意味するのか、理解するのに時間がかかった。

「仲良しごっこは終わり。これ以上は無意味よ」

彼女は初めて会った時のように、棘のある言い方で言い捨てた後、小銃の引き金を引いた。

 銃撃音が響く。

 今度は命中した。

「——きゃ」

短い悲鳴が聞こえる。ルークは制止しようとした。だが遅かった。

「何をするんだ」

「人殺しが人間にとって脅威なのは当たり前よ。そう見えないなら、原因はすごく簡単、あんたは騙されているの」

それ以外の答えはないという、確信に満ちた様子でレミィは言った。

 違う、と反論したかった。誤解しているのはレミィの方だと。

 しかしその声はマダラの突然の叫び声にかき消された。

「うあああああああああああ!!」

耳が割れそうな絶叫がこだまする。

 その瞬間、信じられないことが起こった。

 マダラが苦痛でうずくまった途端、背中にヒビが入ったと思うと、岩の裂け目のように割れたそこから極彩色の羽が現れた。羽化したてのエメラルドグリーンの色を帯びた羽は、天井すれすれまで広がり、鮮やかな鱗粉を撒き散らす。

 やがて全長が見えた。ゆっくりと羽を動かす巨大蝶の下で、サナギの抜け殻のようにマダラが仰向けに倒れていた。

 幻想的な光景だった。しかし、同時にそこだけ空気が歪んでいるように見えた。

 気のせいに見えた空気の歪みが、徐々に膨らんでいく。それが何かエネルギーの集中だと気づいた時、

「危ない!!」

かけ声より先に体が動いた。目を見開いたまま動けずにいるレミィを押し倒す。その習慣、真上で嫌な匂いと共に焼ける音がした。コンクリートの壁が半壊し、えぐれた土壁がむき出しになった。

「—— 何するのよっ」

床に転んだレミィが睨みつけてくる。ピリッとした空気に若干の殺意を感じた、しかし彼女のまなざしにはまだ理性があった。壁に視線を移すとあっけに取られた顔になった。

 しかしすぐに第二波がくる。今度は真上にビームが放たれ、照明がいくつか落ち、火花をあげて帯電した。

 これを直接食らったらやばいことだけは、肌で感じ取れた。

 凄まじい力だ。こんな力を秘めていたのか。

 これが本当にマダラなのか。

 人間の姿をして、自分と会話していたマダラなのか。

 初めて彼女自身が秘めていたその「力」に、恐怖を感じた。

 もうこれは、マダラですらない。ただの力の暴走だ。ルークはそう思った。その姿を見てから、やっとレミィの言いたいことがわかってきたような気がした。

 ……。

 これがこのまま外に出たらどうなる? ルークは想像する。今の状態では街に怪物が出現し、暴走することにしかならない。

 そんなことをさせてはいけない。

 レミィに視線が向く。レミィの目も同じ意見を語っていた。

 しかし、ホンは違った。制御装置が外れたことに、

「レミィ、助かりました。荒削りですが素晴らしい出来です。あとは……」

生き生きと瞳を輝かせながら語っている。自分の研究室が破壊され、命の危険が隣り合わせのこの状況で喜ぶ神経が理解できなかった。

「どれくらい持つのか、ですね」

「すぐに終わらせるわ」

レミィは小声で告げる。感謝されていることに微妙にむかついているようにも見えた。火薬袋を乱暴に装填し直すと、再び撃つ。

 図体の大きい蝶だから、どこを撃っても当たっただろう。しかしレミィの銃弾は、頭部を正確に命中した。

 その途端、ガガガ——と不気味な羽音を立てて形が崩れ始めた。みるみるうちに色を失い、灰色の粉のように散っていく。やはり案外物理攻撃には弱いようだった。

 ただ、それを見ているだけで、自分の中の何かが弾けそうになる。

 心の中で、マダラの悲痛なまなざしが浮かび上がり、ルークの心を抉る。

 ごめん、助けられなくて……。

 誤って済む問題じゃないからこそ、口には出せなかった。

 グレイの作った一つの傑作が、砕け散って灰になった。

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