第30話 再会①
右手を腰に当て、彼女は立っている。マダラは首元の広い黒いシャツに、ベージュのスカートという、ラフな格好をしていた。
マダラはルークを見て、
「やっぱり」
と言いながら、一瞥する。
「あのー、どちら様でしょうか……?」
シエナが、恐る恐るといったふうに尋ねる。動きが硬く、警戒している様子だった。
ルークは今更ながら、二人が初対面だと気づいて、説明した。
「ほら、僕の言ってた赤いチョーカーの人だよ」
「え、ああー! この人なんですか!? すみません、気づかなくて。私、ここの家に住んでいる者なんですけど……」
と言いながらチラリとマダラを窺う。バタフライ・ドールだということは昨日、説明したはずなのに、明らかに他人行儀だった。
その辺りの感覚はよくわからないが、バタフライ・ドールであっても、知らない人であるのには変わりない、ということなのだろうか。シエナに比べると、なぜか客人であるはずのマダラの方が、堂々としている。
「なら、あなたがグレイ?」
「いいえ、あの、私はシエナって言います。グレイは私のおばあちゃんです」
「……違うのね」
マダラは肩を落とし、見るからに落胆を見せた。無理もないことだと、ルークは思った。彼女はずっと、グレイを探しているのに、未だに見つかっていない。
ちょうどその時、ふと壁を見ると、黒くて小さな生き物が視界に映った。八本足の「それ」は、糸にぶら下がって空中を泳いでいる。
「あ、クモ」
なんの感情も持たずに、見たままのことを呟くと、
「ギャアアアア!?」
「イヤーーーー!」
「え、どこですか、クモ」
突然、鼓膜が割れそうなくらいの大きさで、複数の叫び声が上がった。
その叫び声に、ルークは本気で心臓が止まるかと思った。パンセが他を押しのける勢いで一目散に逃げ出していき、その姿に視線を奪われていると、いつの間にかマダラもいなくなっている。
「ル、ルークさん、外に連れて行けますかっ!?」
取り乱したシエナが、早口でお願いしてくる。
どうやら全員、クモが嫌いらしい。
「わかった」
ルークは反射的に返事した。
しかし、冷静に考えてみると、このクモ、1センチもない。蝶だから捕食されると想像したのだろうか。サイズ的に無理があるだろう。
糸を取ると、垂れ下がるクモを持ってドアを開け、その辺の植木にそっと乗せる。
「スパイダーも大変だ」
とルークはつぶやいた。同情とまでいかないが、存在するだけで悪者扱いされるとは、と思った。
クモは大きな光沢ある葉の上に着地すると、短い足で移動し始めた。ひとまず、これでしばらくは、家の中には来ないだろう。
中に戻ると、廊下には誰もいなかった。
「逃してきたよ」
「ほんとですか。ルークさん、ありがとうございます」
シエナがひょこっと出てくる。心の底からホッとしたように胸を撫で下ろすシエナを見て、本当に苦手なんだなとわかった。
「どうぞ、あの、リビングにでも……おばあちゃんの家なので、勝手に使ってくださいって言ったら変ですけど、でも……あ、ちょっとキッチンで飲み物でもくんできますね」
話しているうちに自己完結したらしく、気を取り直した様子で、シエナはどこかに行った。
廊下をまっすぐに歩くと、リビングに行き着いた。
リビングは、広々として生活感があった。真ん中にダイニングテーブルがあり、その上にかなり大きな瓶が置かれている。中身は、言うまでもなくはちみつだろう。テーブルを囲むように椅子が6脚並び、その奥に煉瓦造りの暖炉がある。暖炉の前には熊の毛皮のカーペットが敷かれていた。
マダラはそのカーペットの上で、手と膝をついて座り込んでいた。
屈んでいるせいで、薄生地の向こうに華奢な素肌が視界に入る。しかし、その立体的なシルエットを見ても、人間の生身を見る時のようには不思議と心が動かなかった。どんなに精巧でも作り物は、本物に敵わないということだろうか。
俯いたまま、彫刻のように一切身動きが取れていないマダラに、
「そんなに怖かったかい?」
とルークは尋ねてみる。
マダラはぎこちない様子で首を少しだけ上げた。
「ラゼルのところでも、2、3匹クモを見たの。一匹見たら三十匹いると思え、でしょ? 逃げ出しちゃって」
それは何か違う虫な気がしたが、ルークは特に何も言わないことにした。
それよりも、脱走した理由が本当にそれなのか。
力が抜けてくる気分がした。
バタフライ・ドール本人たちにとっては死活問題かもしれない。だが、脱走するなら一言言ってから飛び出してほしいものだ。
「それで来た道がわからなくなっちゃって、蝶に聞いてみたら、グレイの家を知っている蝶を見つけて、ここに来たの」
なんというか、自由奔放だ。行き当たりばったり、といった方が正しいかもしれないが。
「そっか、お目当てのものが見つかったわけだね」
「いいえ。肝心のグレイ本人に出会えていないわ」
マダラは首を振る。話しているうちに緊張が取れてきたのか、手をカーペットから離し、足だけで立ち上がると、マダラは椅子に座った。
「どこにいるのかしら」
グレイの居場所が分からず、マダラはそう呟く。その言葉でルークは、そういえば、勢いよく逃げ出した白チョーカーのパンセが見えないことに気がついた。マダラと同じように、どこかで震えているのかもしれない。
「あのー。余りものなんですけど、ビスケットがあったのでよかったら」
とシエナが出てくる。ここでもハムハムヘッドで働いている時のように、テキパキと食べ物を持ってきた。
「あ、ぜひ座ってください!」
立っているルークを見て、すぐに促す。ルークはマダラとは反対方向の、隅の席に座った。バランスが悪いのか、座った椅子がガタガタ揺れる。
「昨日買い出しに行ってたみたいで、大したものじゃないんですけど」
と言いながら、コップに入った牛乳とビスケットを、それぞれの席の前に置く。
シエナの動きを、右手で頬杖をつきながら見ていたマダラは、ふと思いついた様子で口を開いた。
「シエナ、質問したいことがあるの」
「はい、なんでしょうか」
「グレイの居場所を知らない?」
名前を呼び捨てにするのが、どこか気になった。相手が女性だから、という理由ではないように思えた。
もしかして、敬称という概念がないのか。ルークはそのように憶測する。人間になっても、社会マナーを学ぶ機会はなかったのかもしれない。
そのストレートな質問に対して、シエナは少し緊張した様子を見せながら、答えた。
「おばあちゃん、いつもふらっと出掛けて、一ヶ月、半年みたいなことも多いので、ちょっと——」
終わりまで話し切らないうちに、マダラはさらに訊ねる。
「それならバタフライ・ドールの作り方、知らない?」
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