第二章
第17話 これは願望か、それとも本心か。
ルークは部屋の片付けをしていた。昔はよく着ていたがもう着なくなった古着、ものが入った袋、ラゼルの作業場で作った愛着はあるが取っ手にガタがいきかけている小棚、何かに使えそうな空き瓶、空き箱、いつ買ったのか忘れたお菓子。
ルークは思い切って捨てていく。
いつか必要? そんな、いつ使うかわからないものがあっても、日常生活の邪魔になるだけだ。
それに今日は——が来る。
山積みになっていたものが、みるみるうちに片づけられていく。しばらく作業をしていると、山の中に埋もれていた、見覚えのある箱を見つけた。
アンの品だ。
埃を払いのけ、蓋を開ける。乾燥させた四葉のクローバーやどんぐり、そして……露天画家に書いてもらった時につけていたネックレスがあった。小さな金属製のハートが日の目を見て、キラリと光る。
こんなところにあったのか、と思いながら、ルークは机の上に置く。あとでアンに見せよう。見つかったことに彼女は驚くだろう。
リビングが片づいた時には、だいぶ時間が経っていた。
間にあった、と思い、安心感が溢れ出す。ゴミ屋敷一歩寸前になっている部屋を見られて小言を言われるのは避けたかった。
ドアに誰かが近づく音がした。
「ただいま」
その声は、間違いなくアンのものだった。母似の顔立ちをしている。白いブラウスに、赤い花柄を刺繍した黒ベストを着て、緑のスカート——これも刺繍の入ったものを履いている。ルークの肩くらいの身長で、相変わらず小柄に見えた。
アンは、ルークを見つけると笑顔になった。
「おかえり。怪我はなかった?」
とルークは聞くが、自分が見た笑顔は幻覚だったのか、呆れた調子でいなされる。
「ハイハイ、ルー兄って無駄に心配性なんだから——って、待って、それ」
机の上に載っている小箱を見て、アンは声をあげた。
「あ、見つけたんだ。片づけしてたら」
「へええ。どこにあったの?」
アンはそう言いながらネックレスを見つけ、「ふふん」と上機嫌に自分の首にかける。それからこれみよがしに、
「どう?」
と尋ねてきた。首元に光る銀色のハート。それを見ていると突然、アンを描いた平面的な絵が、くっきりと思い起こされた。まさしくアンの部屋に飾っている、あの絵だ。
「ん?」
ルークは突然、違和感に襲われた。何故アンの部屋に、あんなものを置いているんだ? 何故自分は片づけをしていた?
何故——。
「ねえ、どう?」
しつこく聞かれて、ルークは我に返った。
「ああ、悪くないと思うよ」
「もう……今、他のこと考えてたんでしょ」
アンはそう言って、ケラケラ笑った。ルークもつられて笑い返す。
「ごめん」
「いっつもそうだよねー、ルー兄って。周りを見ているようで見えていないっていうか、ここにいるようでいないっていうか、上の空っていうの?」
ここにいるようでここにいない?
アンの言葉に、ルークはハッとしてアンを見つめた。
気づいてしまった。
「何? ……どうしたの」
アンは少し怯えたようにルークを見返す。怖がるのも無理はない。ルークの目はこう語っていたはずだから。
何故、アンがここにいる?
と。
「そうだな、僕が悪かったよ」
「ねえ、どうかしたの。おかしくなっちゃってない?」
「……そうだね、そうかもしれない」
アンに見えていたものが、徐々に崩れていく。はっきりとしていたはずの輪郭がぼやけ、首筋にくっきりとした赤い線が走る。バタフライ・ドールのチョーカーだ。
ルークは苦い思いをしながら、言葉を絞り出す。
「だって君は、もう死んでいるはずなんだ……」
その瞬間、アンに見えていたものが、くっきりとマダラに変わった。しかし顔に張り付いた絶望の表情は変わらなかった。
「ルー兄のせいなんだからね!」
と「それ」は言う。
「違う、僕は……」
アンと一緒に暮らしたいだけなんだ。そう言おうとした。けれども「それ」は、ルークを罵倒し続け、しまいには、
「嘘つき!」
と泣きそうな目で訴えた。
ルークは声をかけようとして、そこで目が覚めた。
見慣れた部屋が見える。ものが散らかって、雑然とした部屋。自室だった。
「んあ?」
どうしてここにいるんだ? と本気で思った。起きあがろうとした瞬間、二日酔いで頭の痛みが襲ってきた。でもさっきよりはマシだ、と思ってから、
さっき?
疑問が生まれる。そうだ、最初に起きた時は朝だった。しかし今は正午を過ぎている。どうやらムーン・フォリスで酔った後、自力で帰ってきたらしい。記憶が飛んでいる。
ルークは上半身を起こして、壁にもたれかかった。夢で見たのとは、ものの配置が微妙に違う。
「……」
おもむろにベッドから立ち上がった。部屋に散らかっているものを整理しようとするが、十分も経たないうちにやめてしまった。片づけたいという意思はあるのだ。だが、夢の中では一瞬で片付けられても、現実は何十倍と時間がかかる。
再びベッドに倒れると、三度目の睡眠を試みる。しかし寝過ぎてもう寝られないらしく、酔いの残りが回ってくるだけだった。仕方なく起き上がるとキッチンに行き、干からびかけたパンと煎り豆と水を口の中に押し流す。それからぼんやりと夢のことを振り返った。
アンとマダラは関係ないと、昨日分かったはずだ。なのに、夢の中で混ざったのは、深層心理では否定しきれていないからなのか? 疲れているだけだと思いたい。
アンは戻ってくることを望んでいるのか?
ずっとそのことを考えていたから、夢に出てきたのかもしれない。
望んでいるはずだ。
ルークは思った。彼女が大きくなって、一人の大人になって、幸せをつかんではいけない理由は、どこにもなかったはずだった。アンだって、もし続きの人生があるのなら、それを望むはずだ。それとも……。
……違うのか?
本当の答えは、本人だけが知っている。だが死人には口がない。
「嘘、か……」
夢の記憶はほとんど抜け落ちてきた。唯一「嘘つき」と言われたことが、記憶にこびりつき残っている。たとえ夢だとしても、アンにそう言われないといけない理由はないはずだ。
自分のアンに対する思いに、嘘があるというのか。アンのためだと言いながら、本当は自分のために、自分が平穏を得るために、できもしないことを求めていただけに過ぎなかったのか。「僕の人生に君が必要」という気持ちも、一方的な押し付けにしか過ぎなかったのか。
いくら考えても、満足いく答えは見つかりそうにない。ルークは他のことを考えようとした。
それよりも、マダラを見つけない限りは……。
と考えかけて、ふと、
見つからないほうがいいかもな。
という思いが脳裏をよぎった。リラ図書館で待ち受ける未来がどんなものか想像つかないが、昨日のあの女——レミィ・ノウの話ぶりを聞くに、それほどいいものとは思えない。
ルークは食べ終わると自室に戻った。外着に着替えると、夢の中にも出てきた木製の小棚を開ける。そこには鞘付きのナイフが一本、入っていた。手にとって引き抜いてみると、刃の部分に黒いシミのような点が2、3個ついている。
正直、こういう刃物は苦手だ。あまり見たくないし持っていきたくない。だが万一のことを考えると、あったほうがいいだろう。マダラが襲われていたら立場上、守らなくてはいけない。
しばらく逡巡していたが、ルークはその細長い物体を手に取ると、腰のベルトと接続する。
「果報は寝て待て」という言葉通りに寝てやりたい気持ちはまだ残っていたが、だからと言って、本当に何もせずに寝ているだけでいられる豪胆な性格は持ち合わせていなかった。
外に出てみれば、何か見つかるかもしれない。一応ラゼルに見つかったどうか確認しに行く必要もある。来ていないということは、見つかっていないのだとは思うが。もしくは、蝶を追っていたらマダラに会えないか? この年で真面目に蝶を追い回したくはないけれども、他に方法が思いつかないなら背に腹は変えられない。
見つからない方がいいかもしれないと思いながら、それでもマダラを探す方法を考えている自分に、ルークは矛盾を感じた。それが自分の仕事だからと、そんな自分に言い聞かせる。
ドアを開けると、涼しい風が入ってきた。外は雲がポツポツとあり、晴れたり曇ったりを周期的に繰り返している。気温は昨日より低いようだ。
「行ってみるか」
まずはラゼルのところに行こうと思い、歩道を歩く。平日だからか、ほとんど人通りはない。市場とか街の中心に行けばもっと賑やかだろうが、この辺りはいつも静かなことが多い。
十字路を左に曲がると、カクカク動く白い生物がいた。頭に赤いトサカをつけた鶏が、首を出し縮みしながら歩いてくる。
「……は?」
ルークは意味がわからなくて、思わず声を出してしまった。
なんでこんなところに鶏がいるんだ。誰かの家から脱走してきたのか。犬や猫に捕捉され食われていないのが幸運だろう。
ルークの歩く足が鈍ったが、鶏は能天気に歩みを止めない。この鶏には、明らかに警戒という意識が欠けていた。
何とも言えない気持ちになり、ルークの方からニワトリを避けようとした瞬間、
「グエエエ——!」
鶏が白い羽を激しくばたつかせた。
ルークは驚いて半歩下がる。その途端、プスっと小さな音が鳴り、光を反射する細い物体が見えた。引っ込めた右足の前に、15センチくらいの針が突き刺さっている。
「な——っ」
反射的に横に飛び退く。
立っていた地面に数本の針が立て続けに入った。鶏は横を通り過ぎ、なおも叫びながら走っていたが、背中に2、3本の針が入っているのをルークは見逃さなかった。
道先に、黒い蝶が見えた。
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