第15話 ムーン・フォリス
「ムーン・フォシル? 聞いたことないねえ」
「いや、ムーン・フォリスなんですが……」
7、8人の通行人に尋ねて、ようやくムーン・フォリスの場所がわかった。知らないと答える人が多く、こっちが覚え間違えたのかとヒヤヒヤした。
通りのはずれにある、周囲の建物と同化している家がその店だった。女は喫茶店と言っていたが、夜の居酒屋店としての方が本業らしい。
ここも住宅を改造して店にしているらしく、三階建の一軒家だ。黒い木板に白いペンキで「ムーン・フォリス」と書かれている看板がドアにかかっている以外は、外見は普通の家とほぼ変わらない。変わらなさすぎて、お店かどうか疑ってしまうレベルだった。
ドアの前に立つと、少し緊張してきた。万が一のことを考えて、軽くノックしてからドアノブに手をかける。
開いた。鍵はかかっていなかった。
室内は思ったより薄暗い。切り込みの入った大きな葉っぱが特徴のモンステラが入口近くに鉢植えされていたが、室内のせいかあまり元気そうには見えなかった。内装は黒や焦茶といったシックな色合いを基調としている。全体として落ち着いて、親しみやすい雰囲気があった。
前方にカウンター席があり、その奥には、見るからに寡黙そうな店主が一人立っている。
カウンター席には客人が一人いた。
ドアが開きチリンチリンとなる音に反応して、店主の男性と客人は話を中断し、こちらを向いた。
客人はボブヘアの女性だ。灰色のトレンチコートを隣の椅子にかけて、白いニットを着ている。彼女の頭についているピンク色のヘアクリップを見て、今朝の女性だとルークはわかった。ビンゴだ。直接会えるとは幸先がいい。
女性はルークに気づいて驚いた後、すぐに、その黒い瞳を情熱的に輝かせた。
しかしルークは彼女を一瞥したきり、目を合わせずにカウンター席に座ると、店主に向かって、
「セルべトス産の白ワインは置いてる?」
「ございます、お客様」
「じゃあそれを一杯。喉がかわいた」
「かしこまりました」
店主は落ち着いた低い声でいった。それから背をむけ、棚に並んでいるボトルから、緑がかった小さめの瓶を取り出す。
ルークの左側に座る女性のテーブルには、飲み終わったコーヒーカップとケーキの残りカスがついた平皿が置かれている。
「見つけた?」
女性は待ちきれない様子で聞いてくる。
ルークは初めて女性の方を向いた。近くで見ると、結構、端正な顔立ちをしている。二重のまぶたが茶色い目を大きく見せ、鼻と口は小さい。肌は絹のようにきめ細やかで、桜色のような肌をしている。生粋のガンドレッド人ではなさそうだ、とルークは思った。街で生活している人とは、何かが違う。
そんなことを考えながら、視線がボトルに移動していく。
「銘柄にあると面白そうだよね」
「え」
「バタフライ・ドールっていう名前」
鈍い音がして、ボトルの栓が抜ける。途端に芳醇な香りが立ち上ってくる。逆らわない、寄り添ってくる匂いの味だ。店主はコルクを抜くと、ルークの前にグラスを置き、静かに白ワインを注ぐ。ルークはグラスを右手で持ち上げると、芳醇な味をゴクンと喉に通過させた。
淡白で丸みがあり、結構うまい。居酒屋によっては安物の酒に嘘のラベルを貼るところもあるが、これは本物だろうと思った。また飲みに来てもいいかもしれない。
「さっきセンターで、ギルバード伯爵とバタフライ・ドールのことを聞いたのは君かな」
アルコールが頭を刺激し、思考が冴えてくるように感じる。
「え、ええ、そうだけど」
女性は戸惑いながら肯定する。どうして知っているのか、とでも思っているようだった。
やっぱりこの女だったか。
「目的はなんだ?」
ルークはもう一度彼女を見た。
すでに駆け引きは始まっている。
「バタフライ・ドールを捕まえて、どうするつもりだい?」
「…………言えないわ」
「答えられないというのなら、僕も無償で引き渡す理由がない」
それに、人のものを勝手に取ったらダメだろう?と心中で付け加えておく。一方的にはちみつ瓶を取られたことを、ルークは忘れていなかった。
そもそも渡せる状況ではないと突っ込まれそうだが、それとこれとはまた別の話だ。
ルークが乗ってこないことに、彼女は焦りを感じたらしい。沈黙するどころか、むしろ積極的に聞いてきた。
「あんたこそ、ギルバードの手下なのよね? いくら積まれたの?」
「……」
ルークは白ワインを一口飲み、それから、
「リラ図書館」
と呟く。
「リラ図書館に行くことが条件だ」
「それ、本気?」
疑わしげに聞きながら、彼女は顔色を変えた。ルークは優越感を隠しきれず微笑んだ。
「これ以上に最高の条件があると思う?」
いくらお金を積まれようが、買えないものはある。
本物の友情は、お金では変えない。
思いやりや志も、お金では変えない。
それに、失ったものは戻ってこない。お金は何かを得るための、一つの手段にしかすぎない。
しかしリラ図書館なら、何かつかめるかもしれない。アンとの生活を取り戻すための、手がかりがあるかもしれない。
西陽が入ってきて、黄色い液体の残ったグラスを虹色に反射させる。
彼女は目を細めながら、しばらくどこかを眺めていた。ルークと視線を合わせないまま、
「いいえ……最悪よ」
小さな、しかしはっきりとした声で返した。
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