第25話 シエナ①
「OPEN」と書かれたドアを開けるのに、いつもより勇気が必要だった。
ハムハムヘッドの店内には、まばらにだけれども客がいる。無意識に全体を見渡し、彼女の姿が見えないと、なぜだか少しホッとしてしまった。
いろいろとお店を食べ歩いてみた結果、ここの飯が一番リーズナブルで美味しいから今日も来ただけであって、別にシエナに会うために来たわけじゃない。
ルークはひとまずそう思うことにした。
いつもの二人席に座ると、畳んでいたコートを荷物カゴに乗せ、手持ち無沙汰に壁側を見る。89番の事件が書かれた貼り紙は、すでにはがれている。ボレードの言うとおり、表向きには解決したことになっているらしい。なんともザルな仕事だ。
考える癖で腕組みをしていると、厨房の扉から彼女の姿が見えた。
「あ……」
出てきた途端、シエナはかすかな声を漏らした。
視線が合う。シエナを見た瞬間、今まで脳内で積み上げてきたハムハムヘッドに来た理由が崩れていくのを感じた。この前の記憶がフラッシュバックし始める。もしかしたらいつも通りいけるかもしれないと、淡い期待を抱いていたが、直接出会ってみると、それはただの期待に過ぎなかったことがわかった。
シエナは、いつもの笑顔を忘れたままルークの席に行こうとしたが、
「店員さん、追加でジンジャーエール持ってきて」
「あ、はいっ!!」
裏返った声で返事したかと思うと、ものすごい勢いで厨房に戻って行った。客は少し不思議そうにしていたが、ルークにはシエナの挙動不審な原因が考えなくてもわかってしまい、なんとも言えない気持ちになった。
シエナがまた出てきた。今度はルークと目を合わせずに客席へジンジャーエールを運ぶ。それから食べ終わった皿を回収していく間も、一回も目が合わなかった。何か意志を感じた。
それからもう一度出てきた時は、三度目の正直、といったふうに決意のこもった表情をしていた。まっすぐにルークのところに来て、
「ご、ごちょうもんはどうされますか」
微妙に噛みながら聞いてきた。白っぽい金髪をコバルトブルーのリボンで留めて、いつものようにハーフアップにしている。
ルークは腕を組み続けながら、机に置いているメニュー表を斜め見る。
「……ローストチキンのセットと、グレイビーとマッシュポテト」
「かしこまりました」
ぎこちなく去っていく。
……やっぱり昨日の今日だから、これなのか。他のところで食べた方が良かったかもしれない。と思ったが、注文した以上食べるしかない。
「ふわあ」
とあくびをする。それから右腹がズキっと痛む。そんなに深くは刺さっていない。血は止まったが、しっかり怪我したらしい。それから手足の節々も、ボレードの握力と筋肉痛のせいで痛い。
それでも、大火傷した時よりはマシだ。完治2、3ヶ月くらいかかった。それに比べればこの程度で済んだのは幸運だろう。
考え事をしていると、また厨房からシエナが出てきた。どうしても視線が吸いついてしまう。料理にしては早いなと思っていると、おずおずとルークのところへ寄ってきて、
「すみません、お飲み物はいかがされますか」
どうやら聞き忘れていたらしい。平常を装おうとしているが、逆にいつもより固くなっている。
ルークも半分困り笑いをした。
「今日は水で大丈夫」
「はい……」
シエナはホッとしたように表情を崩し、また厨房に戻った。店長のガハハという豪快な笑い声が聞こえてくる。
料理を運んできた時のシエナは、今度はさっきと打って変わってニコニコしていた。やっぱり笑顔は可愛いが、それにしても何を考えているのかよくわからない。この短期間でいいことがあったなら、それはそれで良かった、と思いながら、料理を口に運び、胃袋を満たしていく。
ハムハムヘッドはいつも早い時間帯に閉まる。ルークが来たのもギリギリの時間帯だったから、さっきのがラストオーダーだと考えていいだろう。食べ終わった頃には客がいなくなり、広い空間に一人になった。
誰もいなくなったな、と思っていると、
「……」
何か視線を感じた。言うまでもなく、シエナがこっちを見ている。店員なんだから待機してお客さんを見ているのは普通です、と言い聞かせているような、ちょっと面白い顔をしていた。
ルークは気づけばいいのか、気づかないふりを続けた方がいいのか、どちらが正解なのかわからなかった。
「シエナさん」
「は、はい」
呼んでみると、すぐに返事が来た。
「……昨日のこと、ありがとう」
作ってくれたエッグトーストが特においしかったな、と思い出しながら伝える。それ以外のことは、あまり明確には思い出したくない。
シエナは息を止めたように口を開けた後、くしゃっと表情を崩して、
「ちょっと待っててください」
と奥に引っ込んでしまった。
……何かまずいことでも言ってしまったか?と危惧する。いや、「ありがとう」ということしか、まだ何も言っていないはずだ。彼女の気に触るようなことは……。
突然、鼻にポテトの匂いが入ってきた。
案の定、シエナが揚げポテトの平皿を持ってきて、黙ってルークの席の机に置く。
「頼んではないと思うけど」
「あの、店長が……」
「?」
「一緒に食べればいいって……」
「……。……!」
ルークは悟った。店長には既にもう、この関係がバレている。シエナから話を聞いたのだろうか。あのおっさんめ、絶対裏で中年腹抱えてニヤついているだろう。ルークには、ありありとその様子が想像できた。
シエナは期待と不安が入り混じった笑顔で、
「座ってもいいですか?」
と尋ねる。
「いいよ」
ルークの一声に、シエナは向かいの空いている椅子に座る。フライドポテトに手を伸ばすと、小動物のように小さな口でカリカリ食べ始めた。
「ルークさんもどうぞ。すごく美味しいですよ」
と勧められる。お腹いっぱいになり始めてはいたが、ポテトは別腹だと自分に言い聞かせて、一個つまんだ。
微妙な沈黙が流れる。
「あ、そういえば、あの、探している人、見つかりましたか?」
気まずさを感じたのは同じだったのか、シエナは話題を振ってくる。
なんと答えたらいいか、一瞬迷った後、ルークは口を開いた。
「まあ、見つかったけど、またどっかに逃げられちゃってね」
「そうなんですか?」
「一応状況とかも話せて、友達の家にかくまってもらっていたんだけど、……大人しく保護されてくれればいいのに、探すのも一苦労だよ」
家で大人しくすると本人が決めて、そう言ったにも関わらず、一言も伝えずに外へ出て行き、未だに脱走しているとなると、ため息の一つでもつきたくなるものだ。
「でも、なんだかわかる気もしちゃいます」
「? 何が」
「ルークさんって、パッと見た感じ優しいんですけど、ちょっと怖いなって感じる時がありますよね——あ、いや、違うんです。別に悪い意味じゃなくて……」
シエナは慌てて自分の言ったことを否定し始める。
褒められているのか、けなされているのかイマイチわからなかった。「ありますよね」と共感を求められても、僕は困る。
「そっか、まあ気をつけとくよ」
当たり障りのない回答をしてから、話をもとに戻そうとした。
「でも、妹じゃないってことはわかったから、僕的には上々かな。あれを見て考えちゃったけどね。死んだ人間の魂が蝶になるって迷信」
「蝶……?」
シエナのポテトをつまむ手が止まる。不思議そうにルークの瞳を覗き込んだ。
「似ていると少しでも思った自分がおかしいよ、はは」
ルークは自嘲したが、シエナは少しも笑わない。真面目な様子で、
「その女の人、ちょうちょなんですか? ……あ、ごめんなさい、ヘンなこと聞いちゃいました」
自分で質問をしてから、シエナは戸惑った様子でまた自分の発言を否定しようとした。
だから、
「蝶かもしれないんだ」
と、ついからかい口調になった。
「え、ほんとですか」
「さあね」
「私、本気にしちゃいますよ……」
本気にされるから、からかいがいがあってしょうがないのだが。
日は暮れている。店の外からカランと木板のぶつかる音が聞こえた。店長が裏口から出入りして、店の表示を「OPEN」から「CLOSE」に変えたのだろう。
シエナは少しうつむいていたが、顔を上げると、おもむろに話し出した。
「あの、私のおばあちゃん、ちょうちょのことがすごく好きで、よくいろんな種類の蝶を飼っていたんです。それで、昔よく見せてくれて」
「人型のもあったのかな」
「えっ?」
ルークは、あくまでも冗談の延長のつもりだった。
「どうして知ってるんですか……?」
しかしシエナは、雷に打たれたように大きく目を見開いた。
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