第33話 本当のことが誰にわかるというのか

 ルークは振り返る。いつの間にか立ちどまっていたマダラが、ゆっくりと人差し指を空に立てると、その先に鮮やかなオレンジ色が輝く、黒い縁の蝶がとまった。

 今の声は——目の前にいるマダラが言ったもの以外、あり得なかった。

 それとも空耳や聞き間違いか。

 いや、違った。

 マダラは腕をゆっくりとおろすと、蝶を見つめながら、頬をゆるめませる。目をわずかに細め、表情が優しくなった。

「これ以上自分を責めなくていいんだよ、ルー兄……って、この蝶が言ってる」

 何を言っている?

 なぜその呼び方を知っている?

 ルークは理解できなかった。いや、推察はできた。マダラは蝶と話せる。そして蝶に死者の魂が宿ることがあると言われている。

 つまり、アンは……今。

 だが、受け入れられるかどうかは別問題だった。生理的嫌悪と言ったらいいのか、苛立ちが込み上げてくる。その怒りを隠せず、ルークは声を低める。

「……嘘をつくのも大概にしてもらいたい」

「あら、いつ私が嘘をついたの」

「アンの話をするなと僕は言ったはずだ」

「アンって妹さんね。じゃあやっぱり、この蝶は……『嘘をついているのはルー兄の方だよね』って」

信じたくない。

 なのに、その言葉にグサリとくるものがあった。マダラは指先の蝶を見つめ続けている。話を伝えるのに気を取られて、ルークの様子にあまり注意を払っていないようだった。

「これもこの蝶が。本当は……」

「黙れ」

ルークが有無を言わさぬ態度で言葉を切ると、本当に黙った。

 マダラは目を見開いて、息が止まったようにルークを見る。

 ルークは、その視線に対して、何も言うことができなかった。蝶がマダラに何をそそのかしたのか、ルークにはわからない。ただ、自分の決めた行動を邪魔されていると感じた。

 ここでマダラの話を話半分に聞いていれば、妄想だと受け流せば、マダラに疑問を持たせることなく、ギルバードのところに連れて行けるはずだ。それは頭ではわかっている。なのに、それができない。

 蝶はマダラの手から離れる。フッと緊張が少し緩んだ瞬間、漆黒の筋を煌めかせた蝶は、ルークの方に近づいた。

 それからまとわりつくようにルークのそば近くで舞い始め、ルークは振り払おうと腕を動かした。こんな虫一匹に、ハメられたくない、という思いがあった。

「——っ、なんなんだ」

「あなたの妹じゃないの?」

マダラはルークの行動に驚き、思わず声をあげた。

「アンはもう死んでいる」

「だからこうやって、コンタクトをとっているんじゃないの」

それを信じろというのか? ルークの顔はそう語っていた。

 しかしマダラは、こう断定した。

「ルークも望んでいたはずでしょ? 妹と話したいって」

「……」

 妹だという証拠は?

 ……しかしそれは、自分が一番わかっているはずだった。

 アンにどう呼ばれていたかなんて、一度も教えたことがない。ラゼルから聞いたかもしれないじゃないか。しかし、ラゼルがそんなこと言うだろうか。

 混乱の中でルークは考える。考えれば考えるほど、わからなくなる。

「だとしたら、なんで今頃来るんだ」

マダラがどうなろうと、アンには関係がないはずだ。本当にアンが僕の味方をしてくれるなら、ずっと黙って見守って、好きなようにさせてくれるはずだ。

 僕がどうしようと、それも……関係ないはずだ。

 にもかかわらず来るということは……。

 ルークの言葉に、マダラはわずかに首を斜めにし、困ったような表情を浮かべた。

 一陣の風が、吹き始め、そして止んだ。

 蝶は、またマダラの指元へ降りてくる。少女の人差し指に、一羽の蝶がゆっくりと、とまる。

 息をするのを忘れるほど、幻想的風景。ルークはその一点を凝視した。

 ——アンは生き返りたいのか?

 ずっとわからなかったその疑問が、頭をもたげてきた。聞きたくないのに、耳はしっかりと音を拾っていく。

「『ごめんね。でも言える時に言いたいんだ。私のことで悩むより、ルー兄はルー兄で幸せになってほしいの。私は明るいところでね、元気に暮らしているから、心配しないで』」

「じゃあ……」

ルークが聞こうとした矢先、

「『気にかけてくれて、ありがとう』」

蝶はふっと意思を失ったかのように、指先を離れると空高く舞い上がっていった。

「……あっという間ね」

マダラは空を見上げている。言いたいことだけ言ってどこかにいくなんて……アンらしい、と思ってしまった。

 不意に、目頭が熱くなってくる。何故涙が出そうになっているのか、わからなかった。それを押さえ込む。

 感情が揺さぶられた理由が、わからなかった。——そうか、と気づかせたのは、理性ではなく感性だった。

 自分は誰かに許されたいと思っていたのか。生き抜くたびに罪を重ねてきた。その罪から自分を許してはいけないと責めていた。だけど、どこかで許しを求めていた。

 懺悔なんて柄ではない。だからこの罪は、墓場まで持って行かないといけない。そう思い込んでいた。

 ——ルー兄はルー兄で幸せになって。

 少し、突き放されたように感じた。

 アンはどこかで生きている。いや、死んでもなお、魂がどこかで生活を営んでいると言うのか。

 ——元気に暮らしているから、心配しないで。

 アンは戻ってくることを望んでいない。

 それが本当なら、自分がしようとしていたことの意味はなくなる。

「大丈夫?」

マダラが下から、表情をうかがってくる。

 彼女の目は、透明だった。嘘をつくという言葉から、最も遠い目の色をしていた。

「……ああ、よくわかったよ」

自分がしようとしていたことの愚かさを。わかっていると思い込んでいた傲慢さを。やろうとしていたことが、いかに無知であったかを。

 そう、僕が馬鹿だった。何もわかっていなかった。

 ずっと、アンが生き返る方法を探していた。探していたというより、実際は半分諦めていた状態だったが。そんな時、他でもないギルバードの口から、リラ図書館の話を受けた。リラ図書館に行けば、アンが生き返る方法が見つかるかもしれない。その一縷の望みをかけて、バタフライ・ドール捕獲の依頼を受けた。

 しかしここまで来て、アンは何も望んでいないと、わかってしまった。

 そうすると、ルークが依頼内容を果たす目的が崩れ去る。

「……マダラさん」

ルークは彼女の名前を呼ぶ。きっとマダラは、自分のやったことの意味をわからないまま、これからも生きていくのだろう。

「これは僕の予想なんだけど」

 脱力するように肩を落としながら、力無く微笑む。

 何のためにここまでやってきたのか、わからなくなってきた。だがその戸惑いよりも、今は目の前にいるマダラに、意識を向ける。

 ギルバードは一度、ルークたちを裏切った人物でもある。ここで仕事を放棄したとしても、ルークが困ることは何もない。むしろ気持ちはせいせいするだろう。もしマダラが捕まらなくて済むのなら、このまま引き返すのも悪くない。グレイの家で、グレイの帰りを待つのだってアリなはずだ。

 一度冷静になり切るのは、無理な話だった。マダラが——いや、アンがそれを望んでいるのなら、そうしてやれ、という気持ちがなかったとは言えない。

 だからルークは感じるままに、話そうとした。

「リラ図書館は——」

「あの、そこのお二人さん、すみませんが」

と、突然、恐縮気味に男性が声をかけてくる。

 そこには緑色の特徴的な——治安維持センターの制服を着た男性が立っていた。

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