第三章
第35話
庶民と貴族の住居を分ける、明確な隔たりはない。だが、足を踏み入れてみると、なんとなく、雰囲気が違う。貴族が住む場所は、建物からして立派になってくる。高い石垣やフェンスに守られ、煉瓦で作られた年季の入った屋敷。比較的新しい家は、富豪が建築させたものかもしれない。道路もきれいで、心なしか空気も澄んでいるように感じた。
住んでいる人の違いが、街全体が生み出す雰囲気の違いを生むのだろうと、ルークは思った。
「この辺りは初めてきたわ」
マダラが、興味津々に周りを見渡す。
他の街に行ったことがないからわからないが、ここ、ガンドレッドは首都だ。いくつかの街を旅してきたとは言っても、これだけ大きな場所には来たことがなかったのだろう。
そのようなことを思いながら、ルークは案内をするような気分で、説明する。
「あそこに緑の屋根が見えるかな? あれが入り口だよ」
話によると、ここから宮殿まで、それほど離れていないらしい。両方ともルークの生活圏にないから、実際に試しに歩いてみたことはないが。
ギルバード・ゴール家は、100年ほど前から貴族に叙せられたと聞いたことがある。ガンドレッド建国時からいる人達と比べたら、貴族としては新しい方だ。どんな経緯があったのかは、聞いたかもしれないが興味が持てなくて忘れた。
「あの屋根が家なの?」
「いや、あれは多分門番が使っている見張り小屋で……奥に先端だけ見えているのが邸宅」
話しているうちに、門に近づいてくる。壮麗な黒い大きな門だ。またこの下をくぐるのかと思うと、見るだけで少し息が詰まる。
「君は大人しくしていればいい。僕がなんとかするから」
ルークは緊張を見せないようにしながら、さりげなく伝えた。
マダラはすぐに、
「わかったわ」
明快な返事と一緒にうなずいた。
門番は二人立っていた。年老いているのと若い人。下町の住人に比べれば、二人ともそれなりに綺麗な服装を着ている。
若い方には見覚えがなかった。最近入ってきた人かもしれない。ルークたちが近づいてきたのを見て、警戒心をむき出しに眉をひそめた。
だが、もう一人の方は顔を覚えていたらしい。
「おお、ルークさんですか」
と声をかけてきた。
「久しぶり、と言ってもたった四日前ですね、この前来たのは」
ルークはにこやかに応対する。
「もう既に言づてをいただいておりますよ。どうぞこちらへ」
と言って、あっさりと門の中に入れられる。マダラがまた、物珍しそうに辺りを見ていた。門番は前を歩いて道案内しながら、親しい様子で話しかけてくる。
「お連れの方は初めてお会いしますかな」
わざわざそれを尋ねてくることに、ルークは違和感を感じた。
もしかすると詳しい内容は聞かされていないのでは、と思った。
考えてみれば、当たり前か。そういえば、ギルバードの妻はバタフライ・ドールを連れてくるのに反対していた、と確かギルバードが言っていた気がする。
「ああ、彼女はマダラという名前の女の子です。伯爵が依頼していた一人ですよ」
それなら情報は必要最低限だけでいいと思い、ルークは簡単に答えた。すると門番は、
「ふむ……女の子を依頼……」
と、少し微妙な顔をしながら白髭をいじる。
「可愛らしい方ですな。大きくなればさぞかし美人でしょう」
何か、門番の想像した方向が間違っている気がしたが、ギルバードがどう思われようが自分には関係ないので、特に補足する気にはならなかった。
「ええ、まあ……」
と流そうとすると、マダラが口を割って入ってきた。
「待って、私はこれ以上成長しないわ。だって——」
わざわざ律儀に答えようとする。ルークは咄嗟に、彼女の唇近くへ人差し指をそっと添えた。
「若い歳だって見られる方が、可愛らしくいれるから、だろう? 確かにその通りだと思うよ。うん、一つ心に留めておくといい。君は一般人じゃない。ここでは重要人物だ。でも大丈夫、さっき言ったことさえ守ってくれたら、僕がフォローするから」
長々とルークが話すと、ようやく察してくれたのか、マダラは視線を伏せて、
「……ええ、そうね、わかった」
と、だけ答えた。今度こそ、わかってくれたか? とルークは心の中で念を押す。
キョロキョロと視線が動くだけならいいが、喋られると何を言い出すかわからない。「自分はバタフライ・ドールで人間じゃないんだ」と言い始めたら、奇異の目で見られることは確実だろう。それはマダラにとってもよくないことのはずだ。
「初めてここに来たのでしたら、慣れないこともおありでしょう」
門番はニコニコ微笑みながら気遣いを見せた。そのうち、話題が他に移っていった。
屋敷の中は広い。一階の入り口は吹き抜けのホールになっていて、左右に曲線状の階段がついている。見上げた先に、初代の肖像画が飾られ、その上に丸が互いに重なった宗教的モニュメントが置かれている。部屋自体が、さながら芸術空間のようだった。
入り口で右手の階段を登っていくと、作業着姿の女中とすれ違った。
「あっ……」
女性の小さな声が漏れる。その声に耳が反応して顔を傾けると、まつ毛の長いダークブラウンの瞳と、目が合った。
火事の時に助けた彼女の姿があった。亜麻色の髪が美しいうねりをあげ、メイド用の白レースで束ねられている。彼女はまぎれもなく美しい、とルークは思った。その美しさを主人の家族よりは目立たせない、気配の消し方も素晴らしい。
まだここで働いているようだ。
「こんにちは、元気かい?」
軽い礼をして、そのまま通り過ぎようと動いたところに、ルークは声をかける。女中はかしこまりながら、
「ようこそお越しくださいました。主人様の恩情で健やかに過ごしております」
と、にこやかに話す。
「そっか、それはよかった。最近は寒くなってきたから、気をつけて」
「はい、温かいお言葉ありがとうございます」
穏やかな性格そのままに、女中は答える。
大した会話ができるわけじゃない。それでも、こうして元気そうに働いている姿を見ると、気持ちが明るくなるのを感じた。
それからルーク達は、客間の一室に案内された。大きい窓ガラスから、外の光が入ってきて、部屋の中は明るい。窓のない壁には肖像画と風景画が何枚も飾られ、床にはカーペットが敷かれている。テーブルやソファの脚の部分が、かなり装飾的に彫られているのが、まず目に止まった。夜の光源用なのか、小さな暖炉もついている。
「ここでしばらくお待ちください。お呼びして参りますから」
門番は二人をソファに座らせると、部屋を出た。
刺繍の凝った豪華なテーブルクロスの上に、黄色い花が生けられているのが視界に入る。
マダラは両手を膝の上に乗せながら、相変わらずキョロキョロと周りを見ていた。
「すごくたくさん、ものがあるのね」
「一つ一つのものに凝っていないと、権威を保ち続けられないのさ」
こうやって、上等なものに囲まれることによってのみ味わうことのできる幸福もあるのだろうと思いながら、ルークはそれらしく答えてみる。服装や髪型など、自分が興味のあるものに凝っていくのはわかるが、家具全般にまで気を遣わないといけないのは、さすがに骨が折れそうだと思った。
「もうちょっと落ち着いたとこの方が好き」
女の子なら、こういうところに住んでみたいと言い出すのかと思っていたが、どうやら豪華すぎて落ち着かないらしい。
「やっぱり自然の方が好きなのかな?」
「グレイの家はとても良かったわ」
背もたれに体重を乗せながら、マダラは感想を述べた。
よく考えてみれば、ルークもここよりは自分やラゼルの家の方が居心地がいい。
まあ、広ければ便利というものでもないか、と思い直すことにした。
しばらくして、特徴的な靴音が近づいてくる。自然に会話が止んだ。
「ずいぶんと早かったようだね」
ドアが開かれ、悠々とした態度で純正装姿の男性が入ってくる。白髪の混じった
ギルバードが入ってきた瞬間、
「あ……」
マダラが短く声を上げた。その瞳が、わずかに揺れ動いた。
ギルバードは座っているマダラを見下ろし、
「これがバタフライ・ドールで間違いないのだな?」
と言いながら、ルークを見る。ルークはその目を挑戦するように見返した。
「教えていただいた通りの条件に該当する人物です」
「なら結構だ」
ギルバードは向かいのソファに腰を下ろす。表情には社交的な微笑みが浮かび上がっていた。ドアが執事の手によって閉められる。
「今日、初めて見たが、随分と人間に近いのだね。一見しただけでは誰も気づかないだろう」
「最初に出会った時は、私も勘違いをしましたよ」
と返しながら、いつまでこの雑談を続けるつもりだろうと思った。早く本題に入って、話を進めたい。
「それで、リラ図書館に彼女も行きたいと言っていましてね、ね、マダラさん」
「おお、もちろん大歓迎だ」
とギルバードは言ったが、マダラは口を開こうとしなかった。
何か、様子がおかしいことに、ルークは気がついた。
「どうかした? ここなら話しても問題ないよ」
「……」
「ほう、バタフライドールは言葉を解するのか」
ギルバードは意外そうにマダラを見た。二人の視線がマダラに集まったが、マダラはギルバードを見つめたまま、黙り続けている。
ルークはそれに、かなりの不安を覚えながら、
「少しばかり、今は調子が悪いようです」
と言うしかなかった。
しかし、ギルバードはそこまで気にしていないように見えた。
「また今度、見れる機会もあるだろう。きちんと確認できたことだ。すぐに行く準備をしよう」
ギルバードは立ち上がると、外で待機している執事を呼んだ。
「今晩のパーティへの参加は取りやめにしたまえ。外せない用事が生まれたのでな」
かしこまりました、と召使の返事が聞こえた。それからギルバードは二人を見て、
「しばらくここで待っていなさい。私には取りに行くものがあるのでね」
と告げる。
「何かご必要でしたら私めが……」
すかさず召使が提案しかけたが、ギルバードはその言葉を遮った。
「いや、問題ない。すぐに伝えに行きたまえ」
その声は今まで聞いたことがないほど、楽しそうにはずんでいる。それほど、この問題から解放されることが、うれしいようだった。ギルバードにとっては、かなり精神的負担だったのだろう。
再びドアが開かれ、ギルバードがいなくなると、部屋の中はマダラと二人きりになった。
さっきから黙り続けているマダラが、どうも不気味だった。
「……」
沈黙が降り注ぐ。何か聞き出すなら、自分から話すしかないとルークは思い、恐る恐る話しかけてみる。
「あー、何かあったのかい?」
と言った瞬間、
グラッ——。
視界が揺れた。
「どういうこと?」
マダラが力強く、服越しに腕を掴んできた。
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