バタフライ・ドール2 -Who the hell knows?-

武内ゆり

第一章 

プロローグ

 歩くたびに、床板のきしむ音がする。その廊下を、できるだけ静かに渡る。この暗がりで、蝋燭一本もつけずに部屋まで来いというのは、全く、誘った相手の気がしれない。

 これが美しい女性との、密かな邂逅ならばロマンがあったんだが……とルークは苛立った気持ちをごまかすために考え始める。しかし残念ながら、相手は一緒にいて気の詰まる、お偉いさん。ここのお屋敷の主人、ギルバート・ゴールという伯爵だ。

 ルークは昼間、召使にメモを手渡された。密会の約束だ。内容を記憶した後、不要になったメモを蝋燭の火で燃やして、寝ずに時間を待つ。それからメモの内容の通りに、屋敷内を縫っていく。指定された部屋まで立つと、小さなノックを三回した。ドアが開いた。

「よく来てくれた」

ギルバートは招き入れ、ドアを慎重に閉める。その動作から、とんでもない秘密情報を打ち明けられるのではないかと危惧した。人にバラせば首が飛ぶような案件とは、できれば関わりたくないのだが。

「ここなら召使も気づかないだろう。すまないな、こんなところで」

「いえ、どこにいようと私には同じことです」

ルークは落ち着いた声で答える。それから、注意深く相手の表情を見ようとした。蝋燭がゆらめいている。その先に、ギルバートの面長で、やつれている顔がある。

「それにしても、ここまで厳重なのも珍しいですね。自分の首が飛ばないことを祈っていますよ」

ルークが肩をすくめて言うと、相手は陽気に笑いだした。

「私は君の腕を信用している。いつも通りにやってくれればいい。そうすれば心配などいらん」

 しかし、そう語る目は笑っていなかった。それが答えなのだろう。

 やはりそういう案件らしいと、ルークは胸奥で理解した。

「……それで、どんなご要望でしょうか、ギルバート伯爵?」

「コインの重さは聞かないのかね?」

「もちろん、多ければ多いほど嬉しいものですが、しかし、金で命は買えませんから」

ルークの表情に暗い影がさす。命を惜しむ人間であることを示せば、諦めてくれるのではないかという薄い願望があったのだが、ギルバートはこの発言を聞いても気にした様子はなかった。

 それどころか、いきなりニヤリと口角をあげ、

「もし買えたらどうする?」

とあり得ない質問をしてきた。

「……お戯れを」

ルークは真顔で接する。だが、ギルバートは続けた。

「君の妹が戻ってくるとしたら?」

妹という単語を聞いた瞬間、ルークはわずかに眉間を寄せる。

「そう難しい顔をするな。もしかしたらの話だ」

ルークの動揺を楽しんでいるのだろう。貴族特有の柔和な、そして冷酷な微笑をたたえながら、ギルバートは視線をゆらめく炎に落とした。

「バタフライ・ドールは知っているか?」

 ルークは知らなかった。知らないと言ったら、教養がないとからかわれるのだろうか? それでも、この貴族相手に正直以外で受け応えるのは危険だったから、当たり障りのないことと結びつけて答えることにした。

「酒の銘柄でしょうか?」

「いや」

ギルバートは首を振った。ルークの答えが面白かったらしく、愉快そうに体を揺らす。

「もしそうなら、どんな味がしただろうな。だが違う。最近都市に侵入してきた、魔物の名称だ」

「ずいぶん可愛らしい名前ですね、魔物にしては」

「リラ図書館が名付けた」

リラ図書館、と聞いて、ルークの表情が固くなる。リラ図書館は国中の知識が集まる場所と言われている。そこに行けば、個人の情報から国家の歴史まで、余すところなく揃っていると。

 さらに、個人の未来がどうなるかもわかるとも言われている。ただの噂かもしれないが、それを信じた人々は図書館の場所を探している。一説によれば、ガンドレッドの城の地下にあるとも、またポウテナという街に隠されているとも言われている。とにかく謎が多い場所だ。

 ルークも妹を救う方法を求めて、一時期リラ図書館を探そうとしたことがある。だが、すぐにやめた。バカバカしい話だからだ。都市伝説は所詮、噂にしか過ぎない。そう思っていたのだが……ギルバートと何度か会って話していると、実際にリラ図書館があり、図書館に行き来できる貴族が、何人かいるらしいことがわかってきた。

 いずれにせよ、庶民には手の届かない世界だ。それならば最初から頼らないのがいいだろう、というのがルークの考えだった。

 ギルバートは続ける。

「そして今回、リラ図書館が要求を出した。『バタフライ・ドールを生け取りにせよ』とな」

「それはまた、急な話ですね」

「どうしてかはわからん。だが知恵の宝庫であるリラ図書館が、バタフライ・ドールに興味を示したことは確かだ。メリットもある。『もし生捕りにできれば、図書館への入場を認める』と」

「……!」

ルークは驚いた。ギルバートの今までの話ぶりから、彼は図書館へ通える稀有な人物の一人なのだろうと思い込んでいたからだ。ギルバートも一度も入れていないのに、情報だけが回ってくるということがありえるだろうか? そしてその信憑性はどのくらいになるのか……頭の中で目まぐるしく可能性を計算する。

「私の知る限りでは、この命令は私にしか出されていない。その通知書にはこうも書かれている。バタフライ・ドールの存在は、知られた場合、社会に甚大な影響を与えうる。必要以上に他言するな、とね。いまいち、どんなことが起こるのかは私にもわからんが、ともかく、君、やってくれるかね」

 ルークはごくりと唾を飲み込んだ。

 ルークは、さっきの言葉が頭にこびりついて離れない。もし生捕りにできれば……。ついに溜まりきれなくなった意思が、口を突き動かした。

「お金は要りません」

「ほう?」

「その代わり、僕……私も図書館に連れていってください」

一か八かの賭けだった。

「私に頼むということは、その前に何人かに頼んで、当てが外れたから、ではありませんか? もし私が捕まえてくれば、無償金で人類の叡智が手に入る。十分魅力的なことだと思いますが」

ルークが笑みを深めれば深めるほど、ギルバートは苦渋に満ちた表情に変わっていく。ギルバートは上から目線で物を言うが、だからと言って自分だけの力で実行できるわけではない。所詮、人の力を借りなければ威張れない種族なのだ。

 ルークはこの時、人生の中で一番の優越感を感じたように思えた。仮にルークが断ったとして、そのためにルークの存在が消されることがあったとしても、その行為によって、むしろ真実から遠ざかってしまうことくらいは、彼にもわかるだろう。

 ギルバートはリラ図書館の叡智を独り占めしようとしていたに違いない。しかし全てがこの貴族の思い通りに行くとは、思ってほしくなかった。今までも、そしてこれからも。ギルバートは沈黙して、重々しい表情で考え込んだ。

しばらくして、

「……わかった」

と絞るような声が聞こえた。言質は取れた。ルークは心の中でガッツポーズをとった。

「君の言った通りだ。何人かを雇って追わせたが……全員惨殺された」

「……どんな方法で」

「ナイフで一突きだ。だが、ナイフの方に、毒が仕込まれていた。殺人事件ということで、張り紙も出回っているが、相手は行方をくらませている」

ずいぶんなやり手らしい。都市に出没して人を殺す魔物を、生捕りにすることができるのだろうか? 一抹の不安が脳裏をよぎる。

「妻には、もう関わるなと言われている。部下の中でも死人が出たから、騒ぎになった。だが諦められなくてね。どっちみち、これで最後の頼みにするつもりだった」

その言葉はギルバードの本心なのだろう。語り終えた彼は、重荷から解放されたように穏やかなものになった。

「やってくれるな?」

「わかりましたよ」

一度決めた以上、後戻りはできない。ルークは部屋を後にした。


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