第18話 私は歪んでる

 あの日から、ばったりと千景は私に絡んでこなくなった。移動教室で千景の教室の前を通るとき、いつだって千景は意気消沈した様子で、ぼうっとしていた。体育の時間だって、いつものように活発に動くことはなく、体育館の隅っこでうなだれていた。


 期末テストが終わった後も、変わらない様子だった。


 でも私はもう、千景を信じられなかった。どうせまた私を心配させて、裏切って、傷つけるために演技をしているに違いないのだ。


 分かっている。……分かっているのに、それでも気付けば目で追ってしまう。廊下ですれ違うとき、家のリビングでご飯を食べるとき、休みの日、たまたま外で顔を合わせたとき。


 どの寂しそうな顔も、全て演技だって分かってるのに、授業中ですら千景のことを考えてしまうのだ。本当に、馬鹿みたいだ。徹底的に裏切られて、良心すらも踏みにじられたというのに。


 お昼休み、窓の外に広がる青空をみつめてぼうっとしていると、芽衣に話しかけられた。


「最近、千景ちゃん絡んでこないね」

「どうせまたしばらくしたら絡んでくるよ」


 私は机に体をあずけて、小さくため息をついた。あいつが絡んでこなくなったこと。それは喜ぶべきことのはずだ。


 けれど、相変わらず私の心の中にはなにか欠けたような感覚しかなかった。


「……なんでそんなに寂しそうにしてるの?」

「さぁ。知らないよ、そんなの」


 私が投げやりに返すと、芽衣は不安そうな声で「もしもよければ、放課後、私の家で二人で勉強しないかな? 期末テストは終わったけど、復習とかかねてさ」と問いかけてきた。


「それに、もしも何か悩み事があるのなら、私に聞かせて欲しいし」


 家で勉強していれば隣の部屋の千景のことばかり考えてしまう。少しの間でも考えずに済むのなら、断る理由もなかった。


「分かった。お邪魔させてもらうね」

「そっか。なにか準備しておけばよかったなぁ」

「別に何もしなくていいよ。幼馴染なんだから」


 私が笑うと芽衣は首を横に振った。


「幼馴染でも、凜は大切な人だから」

「……そっか。ありがとう」


 芽衣は本当にいい子だ。でも千景はろくでもない奴で。なのにどうしてあんな奴のことばかり気にしているのだろう。これが千景の望んだ「執着」なのだろうか。


 だとするなら、今の私はあいつの思い通りってわけだ。けど別に悔しくないし、苛立ちもしなかった。ただ、胸にぽっかりと空いた穴の存在をより強く感じるだけだ。


 放課後、私は久しぶりに芽衣と二人で帰路についていた。部活をやっていた時はいつも一緒だったけど、最近は帰る時間がずれていたから新鮮だった。


 芽衣の家に着くと私は「おじゃまします」とあいさつをして靴を脱いだ。家には誰もいないようで、私と芽衣の二人っきりだ。なれた足取りで、私たちは芽衣の部屋に向かう。


 芽衣の見た目は快活なスポーツ少女といった感じだけれど、部屋は女の子らしくて、可愛い場所だった。デフォルメされたサメのぬいぐるみがベッドの上で横になっている。


 大昔、まだ小学生のころ、私が芽衣の誕生日にプレゼントしたものだ。そんな昔のものをまだ大切にしてくれているのは、嬉しかった。


 私たちはカーペットの上のローテーブルの周りに、二人で腰を下ろした。カバンからテキストをだしながら、言葉を交わす。


「期末テスト、どうだった? 成績表、返って来たでしょ」

「まぁまぁかな。まぁどうせ今回もあいつには勝てないんだろうけどさ」

「別に対抗しなくていいよ。辛いなら諦めればいい。もしかして、そのことで悩んでたの?」


 私はずっと悩んでいた。千景に裏切られて、どうすればいいのか。本当にさっぱり分からなくて。あいつとこれからどんな風に接して行けばいいのか。


 誰にも話すつもりはなかった。黙っていれば勝手に解決する悩みだと思っていた。でもいつまで経っても、そうはならなかった。そんな気持ちを芽衣は察してくれたのだろうか。心から心配そうな顔をしてくれている。


 私が悩む限り、芽衣は私を気遣い続けるだろう。不安な思いをさせるのは嫌だ。それならいっそ、芽衣に話してしまった方がいいのではないか。


「……おかしいって思うかもだけどさ」

「思わないよ」

「……ありがとう。私ね、また千景に裏切られたんだ。本当に、最悪な気分になった。けど、それでも千景から目を離せなくて」


 私がささやくと、芽衣は首をかしげていた。いつものことでしょ? とでも言いたげだ。でも今回は裏切りのベクトルがいつもと違うのだ。


「あいつ、私に恋してるふりをしたんだ」

「……え?」


 芽衣は驚いているみたいだった。実際、あいつは下手に出ることはなかった。誰かに恋をするというのは、いわば、相手に主導権を握られている状態だ。相手の一挙一動にドキドキして、そして悲しんで。


 例え演技だとしても、あいつは常に自分自身を下げることはしなかった。けれど今回はどうしてか、自分を下げてまで私を騙した。


 私があいつの恋心を信じたのは、そういう理由もあった。


「私に会うたび、顔を赤らめたり。目を合わせたら、恥ずかしそうによそを向いたり。まるで本当に恋してるみたいだった。……でも全部演技だった」


 芽衣は表情を険しくさせていた。


「……演技」

「そう。私は騙されたんだよ。それだけあいつの演技は真に迫っていた。だから本気で悩んだんだ。姉である私に恋をするなんて間違ってる。どうにかして、今度こそは、あいつが歪むのを阻止したいって」


 私は肩を落として、大きくため息をついた。


「小学生のときは可愛かったでしょ? なのに中学に入ってから、一気に歪んでしまった。その再現をしたくなかったんだ。その焦りのせいで、少し盲目になってたのかもね」

「……許せない」


 聞いたことのない低い声で、芽衣がささやいた。


「本気で心配したんだよね? なのに善意を裏切るなんて」

「……」

「いい加減、あんな奴、捨てなよ! 姉妹だからってここまで……」


 芽衣の気持ちは分かる。昔からずっと一緒にいた幼馴染がこんな目にあって、怒るのは当然だ。逆の立場なら私も怒ってたと思う。けれど言葉は無意識に口からこぼれる。


「でもやっぱりあいつは妹だから」

「なんで?」

「……え?」


 芽衣は今にも泣きそうな表情で、私をみつめていた。


「なんで凜がそこまで傷つかないといけないの? なんでそんな、他人のことで頭を悩ませないといけないの?」


 千景を他人と表現されて、少しかちんときた。


「……他人じゃないよ。あいつは私の妹」

「でも凜は千景じゃないでしょ!?」


 芽衣はこれまでみたことないほど、表情を険しくさせていた。その姿に私は驚いてしまう。芽衣がこんなに怒るなんて。もしかして客観的にみても、千景は相当に酷いことを私にしたのだろうか。


「凜はいつも、余裕がないように見える。だから好きなこともできないし、恋愛だってできないし、……私の気持ちにだって、気付いてくれないし」

「……え?」


 突然、芽衣は私の頬に手を当てた。熱っぽい瞳で私をみつめてきたかと思うと、触れるだけのキスをした。鼻がぶつかるし、慣れていない、拙いキスだった。


 でもどうしてか、私にはそれが、どうしようもなくまばゆいものに思えていた。私はもう、千景と嫌というほどキスをしたし、性行為にだって及んだ。私はもう、汚れ切っているし、歪み切っている。


「私、凜のことが好き。……だから、あんな奴の心配するの、もうやめてよ! 凜が傷つくところなんて見たくないし、凜には幸せになって欲しいの!」


 きっと芽衣は本気なのだろう。でも、……でもきっと私は千景を見捨てられない。これからも、求められればキスだって、性行為だってするだろう。


 好きでもない相手に、憎んでいる相手に。


 気付けば私だって千景と同じくらい、歪んでしまっていた。そんな私に、純粋で綺麗な芽衣は相応しくない。


「……ごめん」


 私がささやくと、芽衣は涙を流してしまった。

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