大嫌いな妹のファーストキスを奪った

壊滅的な扇子

第1話 大嫌いな妹

 私はラケットを握ったまま、呆然としていた。テニスコートの向かいでは妹の千景が、綺麗な顔を嫌みったらしく歪めて私をみつめていた。


 夢だと思いたかった。スコアボードの私の側にはゼロが並んでいる。私は、ただの一セットも、それどころかただの1ポイントも取ることすらできず、妹に完敗したのだ。それも県大会への出場がかかった決勝で、みんなが見守るなかで。


「確か千景さんって高校からテニスはじめたんだよね?」

「まさかあんなに強いなんて。練習のときは実力を隠してたのかな?」


 部員たちもざわめいている。練習のとき、千景は一度も私には勝てていなかった。私は中学三年間ずっと、本気でテニスをしていたのだ。始めたばかりの千景が勝てるわけがない。


 なのに、どうしてこんなことに……? 全身から汗が噴き出してくる。息が苦しくて、平衡感覚もぐちゃぐちゃで。気付けば、視界が傾いて私は地面に打ち付けられていた。


「大丈夫!? 凛!」


 部員たちの声は聞こえるのに、体だけ死んでしまったみたいに動かない。視線の先では千景が蔑むみたいに笑っていた。


 それを最後に、私は意識を手放した。


 思い返せば、小学生のときも、中学生のときも、そして高校一年生の現在も、私は一度たりとも千景に勝ったことはなかった。唯一勝っているのは、生まれだけ。私は四月生まれで、千景は翌年の三月生まれ。だから私たちは姉妹だけれど同学年だった。


 だからこそ、私はなおさら「お姉ちゃん」としてのプレッシャーを感じていた。お姉ちゃんなのだから、妹よりもできないといけない。妹を導かなければならない。


 そう思って、小学生のころから必死で頑張って来たのだ。けれど頑張れど頑張れど、千景は常に私の前にいた。


「お姉ちゃん! また百点だったよ! ほめてほめて!」


 満面の笑みでそう告げる千景の頭を、私は九十点のテストを隠して、いつも優しく撫でてあげていた。


 いつだって千景よりも点数が低かったけれど、かつては嫉妬なんてほとんどしていなかった。ただ、お姉ちゃんとして先導してあげられない寂しさが心の中にあっただけだ。


 でも時間が過ぎていくにつれて、千景は私を見下すようになった。


 中学に入ると、全教科満点の成績表をみせて「お姉ちゃんってその程度なんだ」なんてあからさまに見下した声と表情でつげるのだ。私も私で思春期まっただ中だったから、そんな千景に強い反感を抱いていた。


 そしていつか見返してやるんだと、必死で勉強も部活も頑張っていた。私がその天狗の鼻をへし折ってやれば、また千景が小学生の頃のような素直な可愛い妹に戻ってくれるかもしれない。そんな風に思っていたのだ。


 けれどその努力が報われることもなく、三年間頑張ったテニスですらほんの数か月で追い抜かれてしまった。


 最悪の気持ちで目を覚ますと、医務室のベッドの上にいた。


「あっ。良かった。大丈夫? 凛」


 そんな優しい声をかけてくれるのは、ベッド脇の椅子に座る女の子。幼馴染の芽衣だった。活発な顔立ちにショートヘアでいかにもスポーツ少女といった感じだ。実際、思いやりができるし性格も明るくてみんなに好かれている。


「……最悪の気分だよ」


 ベッドから起き上がりながらつげる。すると芽衣は「本当にね」と苦笑いしていた。


「千景ちゃんはどうしていつもあんな風なんだろうね?」

「私のことが嫌いなんでしょ。あいつは自分以外、全員見下してるんだよ」

「小学生の頃は素直ないい子だったのに」


 芽衣は寂しそうな顔をしている。千景は俗にいう天才というやつだ。勉強でも運動でもなんでも、あいつ以上にできる同級生を私は見たことがない。だからひねくれてしまったのだろう。


 もしも私があいつと同じくらいの天才だったなら、ここまでひねくれなかったのではないか。時々、そんな風に考えてしまう。


 私はベッドから降りて、医務室を出ていく。


「もう戻るの? 体調大丈夫? ついていこうか?」

「大丈夫だよ。ありがとう。でも今は一人にしておいて欲しいかな」

「そう、だよね。でも気にしすぎないでね。千景ちゃんは規格外だから、負けるのは全然恥ずかしいことじゃないよ」

「……うん。ありがとう」


 私は手を振ってから、競技場の人気のない薄暗い通路に向かった。やり場のない思いに支配されて、拳を握り締める。あとどれくらい頑張れば、私は千景に土をつけてやれるのだろう。


 それとも不可能なのだろうか。私が一歩進む間に、あいつは十歩も百歩も先に進んでしまう。残酷な才能の差は、どうしようもない。


「……なんでだよ。私、お姉ちゃんなのに」


 薄暗い通路でつぶやき、灰色の壁を殴りつける。拳が痛んだけれど、気にしなかった。ただひたすらに殴り続けた。涙も拭わず、自分の拳を痛めつけた。


「なんでだよ……。なんでだよ!」


 息を荒くして、しゃがみ込む。うつむいてうなだれていると、足音が聞こえてきた。振り向くと、明るい青空を背景に千景が立っていた。運動には向かない長い黒髪を揺らしている。


 千景は目を見開いて驚いていたけれど、すぐに嗜虐的な表情に変わって、うずくまっている私の所へと歩いて来た。私のプライドはもうずたずただった。妹に負けただけじゃなくて、こんなところまでみられてしまって。


 私はとっさに千景に背中を向けた。そのまま早歩きで涙をぬぐいながら逃げていく。けれど千景はあっという間に私に追いついたかと思うと、肩を掴んで無理やりに振り返らせた。


 その表情にはもう小学生の頃の優しい千景の面影はなかった。


「ねぇ、お姉ちゃん。私のこと、憎い?」


 そんなことをにやけ面で問いかけてくるのだ。私はついカッとなって、千景の頬を平手打ちした。私は妹を叩いてしまったことに、強い罪悪感を覚えた。流石の千景も手を出されるとは思っていなかったのか、呆然としている。


 けど、その表情もすぐにいつもの嗜虐的な笑顔に塗り替えられる。


「そんなに憎いんだ。たった一人の妹なのに、ビンタするほど憎いんだ?」


 私は何も言わず、その場を立ち去った。


 本当に最悪の気分だった。


 六月。大会が終わったあと、私はテニス部をやめた。幼馴染の芽衣は私のことを引き留めようとしてくれたけれど、もう頑張れる気がしなかった。千景に何もかも全て、自信も自尊心も奪われて。


 私はすっかり自分も、千景も大嫌いになっていた。


 私が部活をやめると、千景も私の後を追うみたいに部活をやめた。千景は私に勝って県大会に出場する権利を得たのに、それすらも棄権していたのだ。その様子をみた部員たちは、手のひらを返して千景を一斉に非難した。


 千景の悪名は学校全体に広がって、気付けば私は悲劇のヒロインに仕立て上げられていた。性格最悪の妹に苦しめられている可哀そうな姉として、一躍有名になったのだ。一方千景はこそこそと陰口を叩かれるような身分になっていた。


 そうなるまでは一週間に一回は誰かから告白を受けていたみたいだけど、それもすっかり止んだらしい。誰からも避けられているのにそれでも千景はいつも通り、人を見下した態度でいた。


 私にはもう、千景のことが理解できなかった。

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