第8話 化学です
出来上がった次亜塩素酸水をカーティスさんに渡して、病室の拭き掃除をお願いする。
「なんか変な匂いしますね。これ塩と水から作ったんでしょう?不思議ですね」
「うふふ。少し塩素くさいけど効果がある証拠なの」
「聖女様の魔法がこもった聖水ですか」
それはちょっと違うけど。
魔法じゃなくて化学なのよと言いかけたけど、まあ発電方法は魔力だし、電気分解について説明するのも面倒だから黙っておくことにした。
「汚れたシーツ類はお鍋で煮てから洗ってくださいね。吐いたところは先に消毒液をかけて。マスクも忘れずにね」
「かしこまりました!」
瓶を持ってカーティスさんが走っていく。
アルドリックさんが腕まくりをして大鍋を運んで行くのが見えた。
リリアーナさんがどこからかエプロンを調達して来て、掃除にとりかかるみんなに配っている。
もう一度電気分解に取り掛かった私のところに、グラッドさんが乳鉢を持ってやって来た。
「聖女様、患者に薬を飲ませ終わりました」
「ありがとうございます」
「効果ありますかね?」
「うーん、飲まないよりはマシってとこじゃないですか?」
ジェフさんが選んだ薬とは、キク科のオケラの根っこを干したものとシナモンを粉にしたものだ。
胃腸に良い薬だが、対症療法でしかない。
「時期が来れば吐き気も下痢もおさまるはずだから」
嘔吐も下痢も止めるより、水分とミネラルを補給しながら悪いものを全部出した方が良い。
ここで流行っているのは感染性の胃腸炎。
海が近いこの街の人達は、海産物をよく食べるのだろう。
その中にはきっと二枚貝も多いはずだ。
おそらく原因はノロウイルスあたりだろう。
田舎ではなくある程度人口密度の高い街ゆえに、人から人、下水などから広がった可能性が高い。
この診療所にいるのはある程度の階級の家の人間だけだと思う。
きっと薬局にも行けない人は自宅で困っている。
飲み水を汚染のないものに。
下水の工事も必要だ。
「リブル伯爵が来てくれるってギリアドさんが言っていたから、色々頼まないといけないわね」
めんどくさいと思っていたけれど、こういう面では伯爵と話せるのは都合がいい。
口から入ることがなくなれば貝毒にあたった人が出ても、もう広がることは少なくなるはず。
「肺炎を起こしている患者が二人います」
「吐いた時誤嚥したのね。大丈夫そう?」
「容体は安定しています。今、ジェフが薬を調合しています」
「消毒剤を作っているから、グラッドさんも
「聖女様も感染しないようにしてくださいよ。聖女様に何かあると私達が侯爵様に殺されますから」
「大丈夫よ。私にはプラズマ◯ラスターが付いてるから」
「はい?」
今、私の身体の表面には微弱な電気を流してある。
身体に付着した細菌やウイルスは死ぬだろうし、放電しているので空気中にはオゾンが漂っている。
乾燥して舞い上がった埃についたウイルスもオゾンで不活化するだろう。まあ私自身が空気清浄機みたいなものだ。
「これぞ聖女の浄化の力よねえ」
私の自画自賛の呟きにグラッドさんは納得したようで、浄化のお力ですかと目をきらきらさせて感動していた。
いや、化学なんだけどね。
**********
新年の宴の日から数えて半月後。
フェザード侯爵もリンドール大公も王宮を辞し、再び私の周囲は静かになった。
……表向きは。
「クロエ様、ジェランの言うことは本当なのでしょうか」
ベルが心配そうに小声で尋ねる。
大公が告げた様に、王宮に出入りする商人に化けて、スリム王国からの使者と名乗る男が私のもとを訪れた。
ベルは男を見てすぐに、その男が紛れもなく母の乳兄弟であるとわかったようだった。
「スリム国王は私を受け入れる用意ができていると言ったのでしょう?」
メラネシア王妃の死後、スリム王国とは国交を断絶したままだ。
戦争を終わらせる為にブルセナ王国に嫁いできた王女を、丁重に扱うどころか不貞を疑い自殺に追い込んだのだ。
直接殺されたわけではない為病死として処理され、戦争の口実にされることはなかったが、それでもスリム王国の国王の恨みは深いという。
攻め込んでこないのは私が生きて王宮にいるからだ。
ジェランは私を亡命させると言った。
「リンドール大公が正式に私との婚姻を申し込んでくるそうよ。ベルも連れて行くから安心して」
リンドール公国はスリム王国の友好国だ。
大公に嫁すと見せかけてこの国から救いだす、そうジェランは伝えて来たのだ。
この間の祝賀会に、大公が婚姻相手を探しに来ていたというのは本当のこと。ただし、それはこの国に限ったことではなく、彼は他国にも訪問している。
しかし、わざと目立つように動いた私と大公の出会いは、父王も王妃も印象に残ったに違いない。
大公が私に婚姻を申し込んでも疑問には思わないだろう。
「クロエ様はそれで良いのですか?」
「どうして?ベルはこの国から出るのは嫌?」
「私はクロエ様のお側ならどんな国でもかまいはしませんが、そんな偽の結婚をして知らない国へ行くなんて怖くはないですか?」
「このままここでどんな相手に売られるのかを待つよりは、偽装結婚でもして自由に暮らす方がいいわよねって思ってるわ。それにスリム王国はお母様の母国だし」
「でも今の今まで放っておいたくせに、なぜ今更……」
ベルの疑念に私は口をつぐんだ。
スリム国王は再びブルセナ王国に戦争を仕掛けようとしているのだ。
表向きは愛する妹の忘れ形見を守りたいと言っているが、真実はどうか。私はスリム国王には赤子の時にも会ったことがない。そんな相手に情があるとも思えない。
おそらく外聞が悪いので排除しておこう、というのが実のところではないかなと思う。いずれにせよ攻め込むのには私がいると邪魔なのだ。
「うまくいくわ。きっと。だから、大丈夫よ」
微笑む私に、ベルはぎこちない笑顔で、『そうですね』と答えた。
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