第3話 ノアの過去
ノアになる前、私はこの世界とは別の世界に住んでいた。日本という国で黒木奏という名前の普通のOLをしていたのだ。
ちょっとオタクな本好きの二十七歳独身、それがノアの前世。
ノアの両親は八歳の時に事故で死んだ。家族三人で乗っていた馬車が急に暴走して崖から落ち、私だけが奇跡的に生き残った。そして、私が前世の記憶を取り戻したのもちょうどその時だ。
事故の怪我とショックで熱を出して倒れた私の中に、突然奏の意識が甦ったのだ。飼っていた猫が逃げ出して、車に轢かれそうになったのを庇ってはねられたのが奏の最後の記憶だ。
アラサー女子の記憶が八歳の少女に備わったとはいえ、こんな昔のヨーロッパ的な異世界で何が出来るというものでもない。別に未来がわかるでもなし、ずば抜けた料理や商売のスキルがあるわけでもなく、ただ大人びた子供としてこの十年を過ごしてきた。
幸い父の知人の紹介で、ランファール伯爵家に侍女として雇って貰えたので路頭に迷わなくて良かった。
伯爵家は使用人でもご飯は美味しいし、部屋も個室をくれるし私は満足している。お嬢様も可愛いし優しくて、そして私と同じく本好きだ。
実はソフィアお嬢様の侍女という肩書きの他に、私はもう一つの顔を持っている。
それはエレノア・ロイデンという名前の小説家だ。色々なジャンルを書いているが、一番多いのは男×男もの、いわゆるBLだったりする。
前世で本の虫の腐女子だった私は、記憶が戻って絶望した。
この世界の本といえばどれも固い内容で、娯楽用の本が少ない。子供向けの物語はあるものの、大人が気軽に読める小説が少なかったのだ。
趣味で小説を書いていた私はこの世界ででも自分の欲求を満たすために、侍女の仕事の合間に隠れていくつか小説を書いていた。それを見つけたお嬢様がいたく気に入り、ランファール伯爵家の人脈を使って密かに出版したのだ。
小説は思いの外よく売れた。みんな娯楽に飢えていたのね。特にBL物は人気で、他国の本屋にも流通するほどになった。
おかげで無一文だった私の懐も、現在は侍女のお給金と副業収入で多少は潤っている。
転生チートというわけではないけど、前世のおかげでネタには困らない。本当のチートは別に一つあるんだけど、それは生活していくには特に役に立たないものだからないに等しい。
そういえば、お嬢様が次は主従ものが読みたいって言っていたなあ。どんなストーリーがいいかなあ。
取材も兼ねてお嬢様と生誕祭に行こうって話になったのよねえ……。
ん?
何か大事なことを忘れてない?昨日、私何をしていたっけ?
ベッドで寝返りをうつと、いつもより布団がフカフカしている。それになんとなくそばに温かいものがある。
なんだこれ?
手を伸ばして触れると、柔らかくてモフモフしている。私は目を閉じたまま撫でてみた。
毛皮の感触。すべすべしてあったかくて気持ちいい。犬のような、でもすごく大きい気がする?フウッとその生き物の息のような風が私の頬を撫でる。
恐る恐る目を開けてゆうに十秒間、私は固まった。
(なんで布団の上に猛獣がいるのよ!)
辺りはまだ暗く、月の光だけがほのかに漂う明かりのない部屋の中で、私はその猛獣と向き合っていた。
目の前に巨大な金色の獣がいる。ふさふさのたてがみを持つ、前世でいうところのライオンだ。もちろん檻に入ってはいないし、鎖で繋がれてもいない。
いったいどうして?
ライオンは漆黒の目で私をじっと見据えている。
あー、ライオンの目って黒かったっけ? 琥珀色とか金色とかが普通じゃなかった?どこかで見た事があるような気がするけど、ライオンの前足が私の両肩に乗って押し倒されて、もうそれどころじゃない。
(これは夢? 夢だわ絶対!)
ライオンの口が開いて、赤い舌がちろりと見えた。
ひえー、喰われる!
ライオンが牙を剥き、私の首筋に食らいつく。痛みを感じる前に、私は意識を失った。
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