第29話 太刀遣いの心得

「おお、これはなかなか!」


 湯殿ゆどのに足を踏み入れたローザリッタが感嘆の声を上げる。


 湯気が充満した石造りの浴室は、二人一緒に入っても十分な余裕がある広さがあった。貴人であるローザリッタの屋敷と比べるとさすがに手狭てぜまではあるが、庶民の邸宅の設備としては標準以上の広さだろう。


 興味津々とばかりに顔を輝かせるローザリッタとは反対に、リリアムの表情はどんよりと暗い。さっさと終わらせよう、と顔にありありと書いてある。


「リリアム、お背中流しますよ!」


「……一人で洗えるわよ」

 

 近寄るんじゃねえ、このでか乳が。そんなに見せつけたいのか――と暗に言っているのだが、ローザリッタは気にも留めない。


「だめですよ。できているようで、意外と背中は洗えていないものなんです。しんの穢れはしんの穢れ。心身の不浄ふじょうは刃筋の不定ふじょうです。剣術遣いたるもの、しっかり汚れは落とさないと!」


 ローザリッタが言っているのは太刀遣いの心得だ。


 太刀を使うにおいて最も重要なものは刀線と刃筋はすじ、そして刃並はなみである。


 刀線とは刃が通る軌道を指し、直線的な軌道を描いて剣に対し、太刀は円形線を描くように曲線軌道で振り下ろす。切れ味を増すために刀身を湾曲わんきょくさせているため、そうしなければ物を切断することができないからだ。


 そして、刃筋と刃並は物体に切り込んだ時の入射角のことを指す。


 前者は縦軸、後者は横軸だ。相手に対して、刃の入射角が一直線に垂直、水平であることが理想とされる。


 前述した刀線と合わせて、この三つが正しく合致することで、太刀は最大限の威力を発揮することができるのである。


 言い換えれば、合致していない状態では、太刀は十分な性能を発揮できない。


 これらが噛み合っていないまま切り込むと平打ちの力が生じ、刀身が曲がったり、折れたりしてしまう。灯篭斬りの試しの時、ローザリッタが太刀を折ってしまったのは、極限の疲労で三位一体が保てなかったからに他ならない。


 絶大な殺傷力を備えながらも、些細な不注意で折れ飛んでしまう太刀を、いかに戦場で長持ちさせるかが太刀遣いの命題である。


 その解決に向けた涙ぐましい努力の一つが、先刻のローザリッタの言葉だった。


 世界オーベルテールに浸透する〈古の信仰〉では、同じ響きを持つ言葉には、意味が違っても見えない糸で結ばれているという考え方がある。


 心と身、不浄と不定がそれだ。

 逆を言えば、心身を美しく保つことで、太刀筋も美しく保てる。なので、裕福な家で育ったローザリッタに限らず、太刀遣いたちは身綺麗であることが多い。


「私からすれば、験担ぎ以上の効果はないわよ」


 リリアムはつまらなげに鼻を鳴らす。


「そうなんですか?」


「無駄とも言わないけどね。人事を尽くしたという自信があれば、より良い精神状態で実戦に臨めるわけだから。心の余裕が、結果的に自分の実力を最大限引き出すことに繋がったとも考えられなくはないわ」


「なるほど」


 感心したように頷くローザリッタ。

 以前、無念無想の解釈を聞いた時もそうだったが、リリアムの言葉は古い概念に囚われていない、非常に現実的なものだった。狭い箱庭で育った彼女には、その一言一言が新鮮で、多くの驚きや学びで満ちている。


「でも、背中が洗いにくいのは変わりません。この先、ちゃんとしたお風呂に入れるのがいつになるかわからないんですから、この機会にすみずみまで洗っちゃいましょう? ね?」


「……はあ」


 リリアムは諦めたように溜め息を吐き、腰掛けに座って背中を向ける。


 どういうわけか、ローザリッタはリリアムの背中を流したくてしょうがない様子だった。ここで押し問答を繰り広げても時間の無駄だし、実際、彼女の言うことにも一理ある。素直に背中を洗ってもらうのが効率的と判断したのだろう。


「……するのは勝手だけど、お嬢様育ちにできるのかしら?」


「お任せください。ヴィオラとはよくしているんです。背中を流すのは得意なんですよ」


 皮肉げな口振りのリリアムに、ローザリッタは自信満々な笑みを返す。


 ローザリッタはリリアムの背後にまわって膝をつくと、用意されていた桶の中に木綿の手拭いを浸した。


 桶の中身は、アワノミという植物の果皮を浸け込んで洗浄成分を抽出した薬液だ。

 植物油と海藻灰かいそうばいから作られる固形石鹸も存在するが、山国であるレスニア王国では非常に高価なものだった。なので、農村部においては、動物脂と木灰から作られる軟石鹸や植物から抽出した天然洗浄剤が主流なのである。


「ふふふん」


 洗いっこしているという発言は真実なのだろう。

 ローザリッタは鼻歌を交えながら器用に手拭いを擦り合せて、もこもこと手際よく泡を生み出していく。


 十分に泡立つと、それを手ですくって自身の体に塗りたくっていき――。たわわな双丘が、つきたてのもちのようにむにゅりと押しつぶされる。


「ちょ、ちょっと! なに、その洗い方!?」


 唐突に押し付けられた二つの柔らかい感触に驚き、目を白黒させながらリリアムが振り返る。


「え? ヴィオラとはいつもこうして洗いっこするんですけど……」


 きょとんとした表情に、リリアムが怪訝そうな表情を浮かべる。


「え……なに、あなたたちってそういう趣味なの……?」


「違いますよ。ヴィオラがわたしのためにしてくれているんです」


 ローザリッタはくるりと背中を向けた。


「自分じゃ見えませんが、ヴィオラが言うには、わたしの背中はとても綺麗なんだそうです。だから、布でこすって傷つけたくないんですって」


 染みも黒子ほくろも見当たらない白磁はくじの背中。


 彼女の体をよく観察すれば、積み重ねた修練でできた傷痕があちこちにあるのが確認できる。だが、その背中には傷ひとつない。それはあらゆる苦行から背を向けなかったことの証左。彼女の意思の強さのあらわれだ。


 その気高さはリリアムにも伝わった。ヴィオラが容易に傷つけたくないと思うのも理解できなくはない。


 ――が。


「別に私にする必要はないわ。普通に布で擦ってくれていいから」


「え、でも、リリアムの背中もとってもきれいですよ。ごしごし洗うのは、何だか気が引けます」


「普通がいいって言ってんの」


「……はあい」


 唇を尖らせながら、ローザリッタはリリアムの背中を流した。


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