始の太刀 天命の魔剣

第1話 〈王国最強〉の娘

 ――黎明れいめい

 朝と夜の狭間、夢と現の境界。

 空も。人も。誰も彼もが己を見失っているような時刻に、ローザリッタはぱっちりと目を覚ました。


 開かれた空色の瞳に寝起きの気だるさは微塵もなかった。どれほど熟睡していようと、神経の一部は常に覚醒するように訓練されているからだ。


 常在戦場じょうざいせんじょうの心得。仮に寝ぼけていたとしても、己の意思とは関係なく、肉体の方が自動的に適切な行動を取る。そうでなければ意味がない。


 ――そう、戦場では。


 ローザリッタは横にしていた体をゆっくりと起こすと、周囲を見回した。日の出前の部屋の中は薄暗く、肩から滑り落ちた毛布の音がはっきり聞こえるほど静かだ。気配を探ってみても別に異常があるわけではない。


 ならば、なぜ目を覚ましたのか。

 普段ならば、まだ夢のふちをさまよっている時間のはずなのに。


「……まったく。我ながら、なんともわかりやすい」


 呆れるように呟いた後、桃色の唇が深い半月を描く。

 力強い、やる気に満ちた笑みだった。


 ローザリッタは元気よく寝床から抜け出すと、そばに立てておいた愛用の木刀と髪留めを握りしめ、勢いよく部屋を飛び出した。



 ◆◇◆◇◆◇



 レスニア王国の東の果て。

 モリスト地方にシルネオと呼ばれる辺境都市がある。


 都市の名を冠するだけあって、居住区をぐるりと市壁がめぐり、領主の屋敷を中心とした行政区画が設けられているが、それ以外は深い森と田園風景が広がっているだけの――ありていに言えば田舎町である。で言えば、ど田舎で有名なイール地方の辺境都市ヴェラスにも引けを取らないだろう。


 の都市と唯一異なる点は、ここが剣術家の聖地であるということだ。


 剣の道を志す者の中で、当代領主――ベルイマン卿を知らぬ者はいない。

 武家の名門、ベルイマン伯爵家が輩出した傑物けつぶつ

 若くして近衛騎士団の長として王家に仕え、数多あまた天覧てんらん試合において音に聞こえた剣客たちをことごとく返り討ちにした〈王国最強〉の剣士。


 現役を退き、家督かとくを継いだ今でもその名声は一向に衰えを見せない。

 彼の存在はもはや信仰の域に達しており、一旗揚げることを夢見る剣術家たちがその威光にあやかろうと『モリストもうで』と称してこの地を訪れるほどだ。


 そのベルイマン卿が住まう屋敷の廊下を、伯爵令嬢ローザリッタは軽快に走り抜けていた。


 寝巻のまま、寝癖もそのままに。木刀を握りしめての大疾走。

 早朝であることを配慮してか、足音が消せる程度に手加減している。が、それでもひるがえった裾の向こう、白い太腿があらわになるほどの速度。


 お転婆てんばな振る舞いだという自覚はあった。侍女に見つかったらとがめられるだろうという確信も。しかし、全身を満たす高揚感が彼女の足を動かし続けていた。


 それというのも――


(いよいよ……いよいよ、待ちに待った元服げんぷくだ!)


 ――ローザリッタは十六になった今日、元服の儀を迎えるからだ。


 もっとも、成人おとなになること自体にさしたる興味はなかった。飲酒も結婚も、彼女にとってはただのおまけにすぎない。


 重要な事柄はただ一つ。


〔元服を迎えた嫡子は、見聞を広めるために武者修行の旅に出るべし〕――という武家特有のしきたりのほうである。


 若い頃は、誰でも一度くらいは自分の限界に挑戦したいと夢想するものだ。それが腕に覚えのある剣術つかいであればなおのこと。


 ローザリッタは己の技が外の世界でどれだけ通用するのか、もっと言えば自分がどれくらい強くなったのか、ずっと確かめてみたかった。しきたりである武者修行の旅は彼女にとって、まさに打ってつけの試練である。


 武者修行を夢見て十年の鍛錬を積み重ね、ついにその日がやってきた。

 行き場のない熱量にさいなまれ、居ても立ってもいられなくなった彼女が、目覚めて早々、部屋を飛び出したのも無理のない話だろう。


 何も今すぐ旅立とうというわけではない。儀式を終えるまでは自分が未成年であるということくらい重々承知している。だが、胸裏に激流のごとく押し寄せる期待感をどうにか発散させないと、本当に飛び出してしまいそうだった。


 ローザリッタが目指しているのは、いつも鍛錬に使っている裏手の森だったが、今の気分では靴を履くのももどかしく、玄関から出るのさえわずらわしい。


「おっと」


 曲がり角から人の気配。自分を起こしに来た侍女だろう。見つかったらいろいろ面倒だ。瞬時に方向転換。開け放った窓から中庭へ躍り出る。


 音もなく着地。地を這う虫をついばんでいる小鳥たちを追い散らしながら中庭を突っ切り――


 もしも塀に自我があれば、己の存在意義に疑問を感じて旅に出たかもしれない。

 それほど鮮やかな、そして常識からかけ離れた凄まじい大跳躍ちょうやくだった。


 ゆるい放物線を描きながら宙を舞うローザリッタを、地平線から顔を出したばかりの朝陽が迎える。


 照らし出された彼女は、さわやかな朝陽に負けず劣らず輝かしい。


 風にはためく長い黄金色の髪。活力に満ちた空色の双眸そうぼう。磁器のように滑らかで、雪のように白い肌。

 まだ幼さの残る容貌ようぼうと小柄な背丈に反して、ゆったりした寝巻の上からでも見て取れるほど、その体つきは起伏に富んでいた。


 その美貌が血筋に因るものなのは一目瞭然だ。

 野に咲くすみれではなく、品種改良された薔薇ばらのごとく何代も積み重ねた貴顕きけんの美。いささかお転婆であろうと、血に約束された優雅さや華やかさは四半世紀にも及ばぬ歳月では払拭できない。


「――お嬢様!?」


 真下から驚きの声が聞こえる。ローザリッタが眼下に視線を向けると、夜間警備に当たっていた若い巡邏じゅんら二人と目が合った。


 運が尽きたか。

 いや、巡邏たちは突然の出来事に呆気あっけに取られている。我に返るまで数秒を要するだろう。これが敵襲なら目も当てられない大失態だが、彼らもまさか不審者が出て来るとは思うまい。情状酌量の余地はあった。


 何より、そのおかげでまだ


「おはようございます! お勤めご苦労様です!」


 言い置きながらローザリッタは危なげなく着地すると、ぽかんと口を開けている巡邏二人を尻目に、森へ向かって颯爽と駆け出した。



 ◆◇◆◇◆◇



「……見たか?」


 あっという間に小さくなった背中を見ながら、巡邏は声をひそめて相方に問う。


「……ああ、白だったな」

「え? そっち?」

「そっちじゃないならどっちだよ」

「どっちってそりゃあ……めっちゃ揺れてただろ。ありゃあ、下に何もつけてないと見たね。また合わなくなったのか。ご立派に成長されて喜ばしいことだ」

「しまった。見落とした。純白があまりにも破壊力がありすぎて……」

「……いずれにせよ、無防備だよなぁ」

「こういう時、この家に仕えて良かったと心底思う」

「まったく同感だ」


 巡邏たちはしみじみとした面持ちで頷く。


「でも、このことは黙っておこうな」

「ああ。不敬罪でお館様に殺されたくないからな。……さてと」


 巡邏二人は密約を交わすと、気を取り直して警笛けいてきを鳴らした。


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