第2話 最古の剣術

 ローザリッタは鬱蒼うっそうとした森の中を風のように駆け抜ける。


 屋敷の裏手に広がる森は、ベルイマン伯爵家の私有地だ。

 表向きは娯楽と実益を兼ねた狩猟のための場所とされているが、その内実は、見せることも語ることも固く禁じられた、一族に伝わる剣術の奥義を授けるための修練場である。


 一般人はもちろんのこと、伯爵家の縁者えんじゃであっても剣の腕が未熟な者は決して立ち入ることは許されない。


 そんな森の中に、当然のように足を踏み入れた時点で、彼女の実力はうかがい知れるだろう。


 ローザリッタの足裏は朝露あさつゆですっかり濡れていた。

 暦の上では春であるが、北国であるレスニア王国の空気にはまだ冬の息吹が色濃く残っており、朝の冷め切った空気は寝巻き一枚ではとてもしのげない。


 だが、彼女は自分の格好など気にも留めなかった。寒さをはね除けて余りあるほどの熱量が、彼女の体に満ち満ちている。


 ローザリッタは懐から髪留めを取り出すと、その端っこを口に咥えた。たなびく金髪を後ろ手で馬の尻尾のようにざっくり束ねたあと、手早く留め具で結わえる。走りながらとはいえ、かなり大雑把な出来映え。


 ……いちいち面倒だったが、髪をまとめておかないと思いがけない事故に繋がる。何せここは森の中。髪がひっかかるような障害物は山ほどあるのだから。


「さあて、行きますか!」


 気合いを入れるための宣言とともにローザリッタは速度を上げた。疾走の勢いが最高潮に達すると前傾姿勢のままぐっと膝を屈め、力強く大地を蹴る。


 思い切りいた毬玉のように、体が高々と空中へ舞い上がった。屋敷の塀を跳び越えた時と同様、いや、それ以上の大跳躍だ。


 空中で姿勢を整えながら、ローザリッタは小高い樹の枝の上に跳び移る。

 着地の衝撃を受けて、枝がぐぐっとしなった。

 その反動を利用して再び、宙を踊る。


 そのまま枝から枝へ。樹から樹へ渡りを繰り返す。

 その姿は鳥か、猿か、さもなければ飛蝗ばったのよう。


 ――〈空渡そらわたり〉。

 この常軌を逸した跳躍術こそが、秘するべき奥義の一つである。


「――やっぱりここにいやがったな!」


 樹上を渡るローザリッタの背中に声が投げかけられた。

 ちらりと後方を横目に窺うと、彼女と同じように枝から枝へ跳び移る影が一つ、矢のような勢いで追いすがってくるのが見える。


 精悍せいかんな顔つきの女であった。

 年の頃は二十代前半であろうか。ローザリッタよりも一回りほど年上に見える。

 乱雑に後ろで結んだ墨色すみいろの髪。浅黒く日焼けした艶やかな肌。抜き身の刀身のような鋭い輝きを秘める黒瞳。すらりとした痩身で、女性にしては背丈が高い。


 控えめであることを強制された白黒の地味な衣装は、侍女の身分である証。

 しかし、それがまるで似合っていない――貞淑ていしゅくさの欠片も感じられないのは、全身から漂ってくる肉食獣じみた勝ち気のせいか。あるいは、おおよそ侍女服に似つかわしくない木刀が腰帯に差さっているからか。


「おはようございます、ヴィオラ!」

「ああ、おはようさん!」


 ヴィオラと呼ばれた女は白い歯をのぞかせながら答えた。


 彼女はローザリッタ付きの侍女である。

 それと同時に、主人と同じく一族家伝の奥義を修めたる者の一人でもあった。でなければ、いくら付き人と言えどこの森に足を踏み入れることはできない。この森での鍛錬はそれほど深い意味を持つ。


「朝っぱらから〈空渡り〉の鍛錬たあ、ちょっとばっかし張り切り過ぎじゃないのか、おい! 巡邏がすげぇ困ってたぞ!」


 とても主従とは思えないような粗野な言葉遣いだが、ローザリッタは気に留めた風もなかった。これが二人の関係性なのだろう。


「だって、いよいよ元服するんですよ! もう楽しみで楽しみで、胸が弾んでしょうがありません!」

「まあ、気持ちはわかるけどな――っておい、物理的にも弾んでないか!? お嬢、また下着付けずに寝やがったな!?」


 慌てたようにヴィオラがローザリッタの胸元を指さした。

 寝巻きの上からでもはっきり見て取れるほど、彼女の豊満な乳房が体の動きに合わせて自由奔放に上下している。


「だって窮屈きゅうくつなんですもの!」

「この間、ぴったりのやつを仕立てただろうが!」

「それが苦しいの!」

「また合わなくなったのか!? おかしいな、あたしはお嬢くらいの歳にはもう止まってたけどな……」


 愕然とした表情を浮かべたヴィオラは、自分の胸元をさすった。

 彼女の思いとは裏腹に、その胸元は侍女服をしっかりと押し上げており、女性らしい陰影を形作っている。嘆く必要は全くないのだが、双子の山のようにどーんと突き出た主人と比較してしまうと、ささやかなものだと落ち込みたくもなるか。


「そんなことより、ヴィオラ! せっかくです、一太刀お願いします!」

「……そう言うと思ったよ、この剣術馬鹿め!」


 手にした木刀を掲げたローザリッタに、ヴィオラは好戦的な笑みで応える。


 二人は示しわせたように、それぞれ近場の樹上で足を止めると、ヴィオラもそれに習って、自分の木刀を構えて向かい合う。


 両者ともに構えは上段。それも甲冑式かっちゅうしき

 得物を肩に担ぐように寝かせたこの構えは、かぶとや鎧を身に着けていたり、あるいは天井の低い屋内で戦ったりと、動きに制限がある状況でも袈裟掛けに振り抜くことを可能にするために考案されたものである。


 しかし、ここからどうやって打ち合うというのだろうか。

 高さこそあまり変わらないものの、二人はそれぞれ別の樹に立っている。真っ当な剣術ならば、同じ地平に立って太刀を打ち交わすものだ。二人の立つ場所は地続きですらない。この状況は剣術勝負と言うにはあまりにも常識外れすぎる。


 だが、何もおかしいことない。少なくとも二人はおかしいと思っていない。

 なぜなら、二人がるのは真っ当な剣術ではないのだから。


 ――エリム古流ベルイマン派。

 それこそが伯爵家に伝わる、〈この世界オーベルテール〉における最古の剣術である。


 いや、本来であれば剣術と名乗るのもおこがましい。

 剣とは人間の時代に生まれ、剣術とは刀剣を用いて効果的に人間を殺めるために編み出された操法だ。空を駆ける跳躍術は、地を這う人間を相手取るのに無用であるし、樹上での戦闘など想定するだけ馬鹿々々ばかばかしい。


 そう。この流派はそもそも人間を相手にしたものではない。

 天翔けるものに肉薄し、その翼を斬り落とすための技である。それが意味するところは一つしかない。


 ――竜殺し。


 有史以来、否、有史以前から生態系の頂点に君臨する有翼の〈神〉を狩るための古の戦闘理論。現代に至るまで連綿と受け継がれた〈神狩り〉の技法こそが、二人の繰る剣の正体なのである。


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