第3話 空中戦

 両者は膝を折り、ぐっと身を屈めた。

 さながら弦を引き絞った弓のように全身の筋肉を収縮させ、力を貯めている。


 ――〈空渡り〉のつかい手同士の戦いにおいては、先に高い位置取りを果たした者が優位に立つ。


 理由は単純。斬撃に重力を上乗せることができるからだ。

 足場をあてにすることができない空中戦では、いかに重力を味方につけるかが鍵となる。

 先に最高点に到達した者は相手を斬ることができるが、逆に、上昇途中であればそれができず、自前の推進力すいしんりょくのみで迎え撃つことを余儀よぎなくされる。


 だからと言って、相手より先にべばいいという考えは浅はかだ。


 あまりに足離れが早すぎると、相手がこちらの攻撃の射程圏しゃていけんに入る前に落下が始まってしまう。つまり、最高到達点が入れ替わってからの接敵になってしまうのだ。


 そのまま、お互いにすれ違ってしまえば仕切り直せるが、下手をすると相手の射程圏内で無防備な後頭部をさらすことになってしまう。そうなればおしまいだ。死角から打ち込まれる斬撃を防ぐのは難しく、また致命傷を免れても、そのまま墜落死してしまう可能性が高い。


 よって、理想は相手よりも一呼吸先。

 二人は力を貯めながら、その読み合いに全神経を集中する。


 ――ヴィオラの頭が、さらに沈んだ。

 瞬間、ローザリッタは跳躍した。内心で喝采かっさいする。完全に相手の機先を制した。僅差で彼女のほうが頂点に到達する。理想的な足離れだ。


 しかし、喜んだのも束の間、内心は驚愕きょうがくに変わる。

 ヴィオラは


 まんまと引っかかったな、と黒瞳がわらう。彼女は体重を預けていた枝のしなりを利用して、踏み込みを深くしたと誤認させたのだ。


 同じ足場に立ち、間境を読み合える距離であれば見抜くこともできただろう。

 だが、ここは樹上。地上戦の技術が意味をなさぬ場所である。小賢しい牽制動作であっても十分に効果を発揮した。


 じっくり待ってからヴィオラが跳躍。この時点で、ローザリッタは蹴り上げた時の運動力量をほとんど使い果たそうとしている。あとは重力に任せて落ちるだけ。このまま入れ替わるように優位な高度を奪うことができるだろう。


 ――が。


「うげぇ、まだ落ちないのか!」


 今度はヴィオラが驚愕する番だった。


 先に跳んだはずのローザリッタは未だ頂点に留まっている。なんと恐るべき滞空時間。卓抜たくばつした体幹による姿勢制御が、高度を維持し続けているのだ。


 小賢しい策は無残に破られ、一転、ヴィオラは迎え撃たれる側になる。

 接敵の刹那、ローザリッタは魔法のような鮮やかさでくるりと上下を反転した。運動力量がゼロになる瞬間、落下重力が発生すると同時に足と頭を入れ替える。


 二つの木刀が交叉し、未だまどろむ森に甲高い音がこだました。


「くそっ! 重てぇ!」


 受け太刀をしながら、ヴィオラが歯噛みする。

 重力に引かれるローザリッタの体重が、そのまま木刀に上乗せされて襲いかかってきた。さながら、飛び上がって天井に頭をぶつけたような心地。真剣であれば、受け止めた太刀ごと押し切られているかもしれない。


 勝敗は決した。

 叩き落されたヴィオラは体勢を崩して落ちていく。


 ヴィオラは手足をばっと伸ばして、さながら猫のような姿勢で空気抵抗を稼ぐ。だが、猫と違って人体の重量はそこまで軽くはない。削れる落下速度にも限界がある。


 ヴィオラは近くに伸びていた手頃な枝を掴んで、逆上がりの要領でくるりと一回転。落下の勢いを削って削って――しゅた、と足からの着地に無事成功した。


 ――ものの。


「おっと」


 そのまま自重を支えきれずに、ぺたんと尻もちをついてしまう。


「くそ……」


 めくれた侍女服の裾から覗く両膝ががくがくと震え、太腿が痙攣けいれんしていた。

〈空渡り〉――常軌を逸した跳躍術は、いかな習得者といえど負担が大きい。


 次いで、ローザリッタも落ちてくる。

 こちらも鮮やかに着地。しかも、ヴィオラのように腰を抜かすことはなく、二本の足でしっかりと立っていた。


「……あたしより先に跳んでいたはずなのに、まだまだいけるみたいだな」


 主の余裕綽々よゆうしゃくしゃくぶりに、ヴィオラは苦笑を浮かべる。

 高度の競り合いに負けた時点で敗北は必至だ。

 例え一撃目を凌げても、崩された体勢は足場のない空中では容易には回復できない。そのまま硬い地面に打ち付けられるか、さもなくば着地に意識を奪われている隙を突かれて命を落とす。まして、立ち上がれないともなれば勝敗は明確だった。


「あの泣き虫がずいぶんと強くなったもんだ。ちょーっと前までは、あたしも天才剣士だって持てはやされたもんだが、ここ数年、お嬢には負けっぱなしだな」


 悔しげな台詞とは裏腹の、さっぱりした口調。

 ヴィオラも決して弱くはない。この森に足を踏み入れることを許され、なおかつ〈空渡り〉を行えるほどの天性の素質がある。


 だが、それを歯牙にもかけないローザリッタは才能の桁からして違った。

 負けるのも今回が初めてではない。悔しいだの、無念だのという気持ちはとうの昔に吹き飛んでいる。


「わたしなんてまだまだですよ」


 苦笑を浮かべながら、ローザリッタ手を差し伸べる。

 差し出された手のひらの皮膚は固く、分厚い。少女らしい柔らかさとは無縁のそれを握り返すと、ヴィオラはよっこらせと体を起こした。


「あたしを軽くあしらっておいて、なんだその言い草は。謙遜も度を越えると嫌味に聞こえるぞ?」

「そんなつもりはありません。本当のことです」


 唇を尖らせるヴィオラに、ローザリッタは真面目に答える。


「お父様が治めるこのモリスト地方はレスニア王国のほんの一部でしかなく、その王国だって〈大平原〉に存在する数多の国の一つに過ぎません。ここでの位置づけが、そのまま世界の位置づけに繋がると考えるのは、井の中の蛙というものです」


 それに、と彼女は続ける。


「……お父様には、ただの一度も勝てたことはありませんし」


 その言葉に、ヴィオラは思わず呆れ顔になる。


「そりゃ、比較する相手が間違っているだろ。いくらお嬢でも、お館様と比べるには十年足りない」

「おや、十年でいいんですか?」


 ローザリッタは悪戯っぽく笑う。

 最強の名をほしいままにしている父親に対し、たった十年でいいのかと。


「……言葉のあやだよ」


 そう言いつつもヴィオラにはそれが不可能なことだとは思えなかった。そう思わせるだけの天賦てんぷがこの少女にはあると確信している。


「……とはいえ。何十年と鍛錬を積んだとして、今のままでは、決してお父様には追いつけないでしょうね」


 ローザリッタの表情が陰る。

 桃色の唇から漏れる吐息は憂いをはらんでいた。


「剣の極意は、型稽古だけで到達できるものではありません。剣とは、元来が斬り覚えるもの。真の強さは命を賭けた戦いでしか得ることができない。お父様の強さは実戦経験に裏打ちされた確固たるものです。……それに比べ、わたしは一度も他流と剣を交えたことがない。いいえ、それどころか――」


 ――街の外に出たことすらない。

 ローザリッタは伯爵家の嫡子ちゃくし、それも未成年という立場ゆえに、とても狭い世界で生きてきた。どこへ行くにしても、何をするにしても従者がはべり、徹底して危険から遠ざけられる。


 ましてや、真剣勝負など論外だ。彼女が類稀たぐいまれなる剣の才能を持ちながらも己の実力を一切信じられないのは、そのような環境下にあるせいだった。


「ですが、それも今日限りです。元服さえしてしまえば、武者修行の名目のもと、誰はばかることなく他流試合に臨むことができるのですから……!」


 ローザリッタは燃える瞳で、ぐっと拳を握りしめる。

 武家は、貴族の中でも文字通り武力で王家に尽くすことを義務付けられた一族。それに連なる者が荒事において未熟では話にならない。武者修業とはそのためのしきたりであり、それをないがしろにするのは武家としての在り方に反する。


 名門ベルイマン伯爵家ならなおさらだ。女とはいえ、嫡子としての責務からは逃れることはできない。


 そして、今日がその日だ。

 彼女は元服を迎える。武者修行の旅に出ることができる。ようやく、ローザリッタは念願の他流試合に挑むことができるのだ。


 それを思うと、せっかく発散したやる気がまた湧き出てくるのを感じた。全身が熱くたぎり、四肢に活力がみなぎっていく。


「剣術を学んで十年、ようやく機会が巡ってきました! この広い世界に存在する数多の剣術つかいに、わたしの剣がどれだけ通用するのか……考えただけでわくわくします! ねえ、ヴィオラもそう思うでしょう!?」

「あ、ああ……そうだな……」


 嬉々として同意を求めるローザリッタに対し、ヴィオラは曖昧に頷いた。

 真剣で戦う以上、結果は不具ふぐになるか、命を落とすかである。たとえ武家の人間であっても普通、ここまで喜びはしないだろう。剣術馬鹿と称したヴィオラの言は間違いではない。


 しかし、ヴィオラの歯切れの悪さは、ローザリッタのずれた感覚のせいだけではなかった。


「……やっぱり誰も言ってないのか。だよなぁ。昨日、さっさと寝てたもんなぁ。おまけに今朝は異様に早起きだし……あ、もしかしなくても、あたしが言う流れになってないか、これ」


 がりがりと頭を掻きながら、ヴィオラは口から大きな溜め息を吐いた。


「え、なにか言いました?」


 くるり、とローザリッタが躍るように振り返った。その浮かれ具合に、ますますヴィオラの眉間の皺が深まる。


「言った。せっかくご機嫌なところ、水を差すようでなんだけどさ」

「はい」

「取り止めになった」

「……はい?」


 言っている意味が解らない、とばかりにぱちぱちと目を瞬かせる。


「だから、。昨夜の親族会議で決まったらしい」


 一瞬の間をおいて、


「えっ――――!?」


 悲鳴が森中に響き渡る。

 あまりの大音量に驚いた鳥たちが数羽、朝焼けの空に飛び立っていった。

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