第4話 元服の条件
――人生最大の失敗は何だろうか。
ベルイマン伯爵家当主、マルクスは閉ざされた視界のなかで自問した。
答えはすぐに返ってくる。
――決まっている。我が娘に剣を学ばせたことだ。
そうでなければ、自分は今、これほど頭を悩ませてはいないだろう。
親族たちの意見は一致していたとはいえ、ローザリッタの元服の儀を取り止めにすると決定したのは他ならぬマルクスだ。
彼女が元服を、ひいては武者修行に出るのを心待ちにしていたのは、この屋敷の誰もが知っている。
それをいかにして説得させるか。諦めさせるか。彼の悩みはそこに尽きていた。
取り止めの件がローザリッタの耳に入れば、いの一番にマルクスのところに詰め寄ってくるのは明らかだ。
そう考えると何とも気分が重い。
最近、頭髪の霜が濃くなったのは寄る年波以外にも原因がありそうだ。
布団の中で悶々をしているうちに、窓の向こうから小鳥の
――もう朝か。結局、一睡もできなかったな。
マルクスはそれ以上眠るのを諦めて、そっと寝床から抜け出した。肩掛けを一枚羽織り、寝室を後にする。
人気のない薄暗い廊下をひたひたと歩いていると、外から
(……賊か?)
マルクスは眉を
まして、ここは〈王国最強〉の男が住まう場所だ。どんな荒くれ者であっても普通は二の足を踏むだろう。
警笛の音が聞こえてからしばらくして、側近の男が走ってきた。
「お館様、こちらでございましたか」
「何事だ」
「ご報告申し上げます。お嬢様が……ローザリッタ様が館を飛び出されました」
「……何をやっておるんだ、あやつは」
マルクスは重苦しい溜め息を吐く。だいたいの察しはついた。元服の儀が――正確には、その後に待ち受けている武者修行の旅が待ち遠しくて、いてもたってもいられなくなったのだろう。
「ヴィオラ殿が後を追いかけていますが、いかがいたしましょう?」
「どうせ裏手の森だろう。ひとっ跳びしたらすぐに戻ってくる。別段、警戒する必要はない。巡邏にも迷惑をかけたと言っておいてくれ」
「御意」
「……ああ、それと」
一礼して下がろうとする側近をマルクスが引き止めた。悪戯っぽい笑みが口元に浮かぶ。
「茶を淹れてきてくれ。眠気を覚ましたい。濃い目でな」
「はっ」
「中庭まで運んでくれ。先に行く」
言い置いて、マルクスは屋敷の中庭に足を運んだ。
花壇に植えられた季節の花々。
色鮮やかな淡水魚を放した小さな池。
竜を模した石造りの
貴族の庭園にしてはこじんまりとしているが、暇を見つけてはマルクス手ずから世話をしている自慢の庭園だ。
マルクスはおもむろに縁側に腰掛け、側役が運んできた淹れたての茶をすする。
土を
「――お父様!」
中庭の塀を跳び越えて、ローザリッタが舞い戻ってきた。
マルクスはその姿にぎょっとする。風でぐしゃぐしゃに乱れた髪に、乳房が今にもまろびでそうなほどに着崩れた寝巻き。さらには素足。
お
「……朝っぱらから騒々しいぞ、ローザリッタ。塀を跳び越えるな。奥義を乱用するな。きちんと玄関から出入りしなさい」
「元服の儀を取り止めにするとはどういうことですか!」
マルクスの小言を無視して、ローザリッタは
「言葉通りの意味だ。そなた、元服の儀を済ませたら武者修行に出るつもりであろう?」
「もちろんです!」
わかりきった返答ではあったが、それでもマルクスは苦々しく口元を歪めずにはいられなかった。
「ローザリッタ。そなたは、このベルイマン伯爵家の跡取りだ。
レスニア王国において爵位継承は長子相続が原則だ。
基本的には長男が継承するものではあるが、一人も男児がいない場合は長女であっても相続を許されている。
周辺諸国に比べ、高い文化水準を誇るレスニア王国であっても、医療分野は完全ではない。未だ子供の早死を克服できていない時世、そうしなければ血統を保つことができないのだ。
その一方で、女性当主の効力は一代限りと定められていた。あくまで正当な嫡子が生まれるまでの繋ぎであり、爵位を継承した女は速やかに次の継承者たる男児を産むことを
「その言葉、そっくりお返しします。伯爵家の当主になることと、優れた剣士になることは
「旅先で死なれたら困る」
率直かつ明瞭な理由を、マルクスは放つ。
街の外――人間が開拓した土地以外の場所は、未だ原初の息吹が残る魔境である。
人間さえ餌にしてしまうような大型の獣。
豆粒のように小さく、されど、たった一噛みで死をもたらす有毒の蟲。
神経を麻痺させる花粉や、精神を狂わせる蜜を巧妙に駆使し、時には消化液そのものを武器としてくる肉食植物。
魔境は、街の中で安穏と暮らしていては想像もできないような、物騒な生き物がひしめいている危険地帯。専門の知識や技術がなければ、街から街へ渡り歩くことさえ困難を極める。
そして、危険なのはそこに棲む生き物だけではなかった。
街の外には、人の法がない。
あるのは弱肉強食の
それをいいことに、街から追放された無法者たちが、我が物顔でのさばっていることがある。
多くの場合、彼らは群れて野盗へと転じ、洞窟などを根城にして近隣の村落や行商人を狙って
人間を狩るのが一番巧みなのは、同じ人間だ。
自然の猛威に対しては、その生態を学ぶことである程度は対処法が確立しているが、野盗の襲撃はあくまで偶発的なもの。
一種の賭けではあるが、それでも行商は毎回、決して安くない料金を払って傭兵を雇って旅をする。金で買える安全を買わない人間に明日はない。
そこまでしてなお、命の保障がない場所が街の外なのである。
すでに初老に差し掛かったマルクスにとって、一人娘であるローザリッタは伯爵家存続のための命綱。武者修行の旅で万一のことがあれば、お家が傾く。当主として当然の発言であった。
無論、そんな事情はこれまでにさんざん語って聞かせてきたつもりだ。それでも、ローザリッタの剣術に対する熱意は失せる兆しを一向に見せない。それこそ、元服の日の直前まで。
不安に駆られたマルクスおよび親族たちは急遽、会議の場を設けて話し合った。
そこで出た結論が、元服そのものを遅らせてしまえばいいというものだ。元服しなければ武者修行に出る資格も理由もない。もちろん、問題の先送りでしかないのも事実ではあるのだが。
「だいたいな、武者修行などしなくとも、そなたは充分に強いではないか。門人の中でも並ぶ者はおらん。どうして、そこまで強さを求める?」
「――強さに充分などありません」
マルクスを真っ直ぐに見つめて、ローザリッタは断言した。
「充分など手抜きの言い訳です。取り零すことを前提とした強さなんて、わたしは求めていません。わたしは、わたしが守りたいと願う全てを守りたい。ベルイマンの家も。領民も。この国も。あらゆる理不尽から全てを守れるだけの強さが欲しいのです!」
そう断言する我が娘を、マルクスは痛ましげな眼差しで見つめる。
十年前のあの日から、ローザリッタに請われて剣術を教えることになった。貴人たるもの、自分の身は自分で守れるに越したことはない。それでも護身術程度の剣技さえ身に着けばいいと思っていた。
しかし、彼女はマルクスが想像を遥かに上回る速度で成長した。さながら真綿が水を吸うように、わずか十年の歳月、十六という若年で既に並ぶ者のないほどの実力を身に着けたのである。
しかも、彼女の成長は止まることを知らない。今が限界でないことくらい、親の欲目を抜きにしてもわかる。〈王国最強〉をして底が見えぬと唸らせる特大の原石だ。
だが、その大きすぎる才能が、この騒動の原因だった。
限界を知らぬ者は、適度を知らぬ。
人は、己の限界を知ることで謙虚さを身に着ける。我が身の
ましてや――お
何より恐ろしいのは、ローザリッタにとって眼前の父ですら山ではあっても壁ではないことだ。
遥か
(
マルクスとて剣士だ。ローザリッタという特大の才能の原石を磨いてみたい、どこまで行けるのか見てみたいという気持ちは確かにある。
だが、彼にはそれ以上に伯爵家当主としての立場があった。その決定に私情を挟むわけにはいかない。
(さて、ここまでは予想通りだが……)
ローザリッタの反発は解り切っていたことである。
問題は、ここからどう諦めさせるか。
権力や立場で押さえつけるのは悪手だろう。駆け落ちなどがそうであるように、若い時の情熱というものは
穏便に、かつ、本人の意思で断念させる。それのなんと難しいことか。物の道理をわからぬ小娘を諭すのに、〈王国最強〉の肩書などまったく役に立たない。この小娘の意固地さときたら、まるで庭先の石灯篭のようではないか。
(……待てよ?)
ふと、マルクスの脳裏に妙案が浮かんだ。
「――時に、ローザリッタよ。そなた、
「……なんです、
「欲しいかと聞いておる」
「それは、頂けるなら欲しいですけど……」
問いかけの意味が解らず、ローザリッタがわずかに動揺する。
剣術の世界において、弟子がどこまで上達したのかを表わすのが
流派によって段階や名称は異なるが、ベルイマン派では初伝、中伝、免許、皆伝の順序となっている。
皆伝の印可を授かるということは、その流派の技術、理念を全て継承したことを示し、独立して弟子を取ることを許される。
例えば、町道場の道場主などは、それ自身が流派の宗家であるか、さもなくば印可を授かった弟子が独立したかのどちらかだ。
「皆伝を授けるから武者修行を諦めろとか、そういう話じゃないでしょうね?」
「馬鹿者。卑しくも宗家の人間が、印可を取引の材料にするか。
「それは願ってもないことですが……話を逸らそうとしていません?」
「いや、そなたの進退に関することだとも。なぜなら、印可をもって、そなたの元服を認めようというのだ」
ローザリッタの表情がわずかに和らぐのを見て、マルクスは自身の妙案に手応えを感じた。意見が相違する場合、一方の主張だけを押し通したところで相手は納得しない。相手の意見も受け入れた上で歩み寄って、折り合いをつけることこそが肝要だ。
――それがたとえ、言葉の上のことであったとしても。
「わかりました。それで試練の内容は!?」
「これだ」
「……その灯篭が、なにか?」
「斬ってみよ」
「は?」
言葉の意味が解らずに、きょとんとするローザリッタ。
マルクスは挑戦的な笑みを浮かべる。
「七日後の日没までに、この石灯篭を斬ってみよ。さすれば皆伝印可を与え、元服を――武者修行を許そうではないか」
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