第5話 地稽古

 エリム古流ベルイマン派は、この世界における最古の剣術と評した。


 天駆ける〈神〉を打ち倒すための、空を渡る剣法だと。


 では、通常の剣術――対人戦が不得手かと言うと、そうではない。


 むしろその逆で、奥義の一つである〈空渡り〉を習得するまでに積み重ねる稽古は、対人戦においても有効に作用する。


 身体的な素質だけで生き残れるほど武術の世界は甘くはない。術理面での優位性、正当性がなければ、マルクスが〈王国最強〉の座に君臨することはなかっただろう。


 ならば、エリム古流における対人剣術としての術理とは何か。


 それを語るには、そもそもにおいて人が跳ぶとはどういうことかなのかを考察せねばならない。


 結論から言えば、跳躍とは全身運動である。


 反動をつけるための腕を動かす三角筋や大胸筋。

 空中で姿勢を安定させるための腹筋や背筋。最も高い力を生み出す大腿筋だいたいきん

 生み出された力を伝達するための大臀筋だいでんきん腸腰筋ちょうようきん

 地面を強く蹴り上げるための前脛骨筋ぜんけいこつきん長趾伸筋ちょうししんきん下腿三頭筋かたいさんとうきん

 ――等々、全身の筋肉より生じる運動力量を、余すことなく連鎖的に行使して推進力に変換することで、初めて人間は跳ぶことができるのである。


 このように。幼子でもできる何気ない動作であっても、その皮膚の下で、人間が普段意識している以上の筋肉が躍動しているのだ。


 故に、より高く跳ぶことを欲するならば、本来は意識しない深層部の筋肉の動きを完全に掌握し、なおかつ自在に動かさなければならない。


 ましてや、足場のない空中でなお思い通りに身体を動かすためには、頭の先から爪の先まで張り巡らされた筋繊維の一本一本を精密に操作できるだけの身体制御感覚が不可欠だ。


 己の肉体を、思考通りに動かす。

 それを一言で言ってしまえば『動作の最適化』である。


 効率的な身体運用は武術全般の根底だ。

 つまり、〈空渡り〉の習得を目的とした稽古を積んでいる時点で、一般的に流布している対人剣術と共通する技能は養えるのである。


 だが、その養い方は独特の一言に尽きた。

 ベルイマン派では、あえて障害物の多い場所で稽古を行う。


 実際に奥義を継承した者たちが駆け巡る裏手の森もそうであるし、未熟な門下生たちが基礎を身に着けるために集う道場もまたしかり。


 道場の間取りは四方三間さんけん

 木刀を持って二人が対峙した状態では、一歩でも間合いを測り損なえば、すぐに相手や壁にぶつかり合ってしまうほどの狭さだ。


 だからこそ、打ち合う中で最少、最短、最速の体捌たいさばきが自然と養われていく。


 紙一重の距離を制するほどの緻密な身体操作を獲得するには、むしろ広々とした空間は不要なのである。


 その狭い道場の一室で、道着姿のローザリッタと年嵩としかさの師範代が一間の距離を開け、膝をついて向かい合っていた。地稽古じげいこである。


 さすがのローザリッタも稽古中はしっかりとした身だしなみをしている。


 丁寧にくしかれ、邪魔にならないように馬の尾のように結わえられた金髪。みそぎをしてさっぱりとした肌。ぱりっと糊の利いた清潔な道着。どうしても男臭くなりがちな道場において、静かに呼吸を整えながら座す彼女の姿は一輪の薔薇のように可憐だ。


 もっとも、その艶姿あですがたに目を奪われるような門下生は道場にはいない。物理的に。この場に存在するのはローザリッタと師範代、そして、審判役を任されたヴィオラの三人だけだ。


 二人は一礼を交わすと、脇に置いた木刀を取って立ち上がる。

 双方、正眼の構えで合図を待つ。


しからば始め!」


 ヴィオラが声を張り上げて告げると、二人は同時に一歩下がり――双方、甲冑式の上段に構える。肩に担ぐようなその姿勢から遠心力を利用して振り下ろすは、狭い空間でも十分に威力を乗せることができる古流特有のものだ。


 立ち合いでそれを選択する意図は明白。

 即ち、一撃必殺。


 お互いにり足でじわりじわりと距離を詰め、間合いを測る。


 両者とも肩を一切揺らさない。ローザリッタはもとより、対手である師範代もその肩書にたがわず並々ならぬつかい手であることをうかがわわせた。


 距離が近まるにつれ、徐々に場の空気が緊迫していく。

 用いるは木刀。されど、両者の気迫は真剣そのものだ。

 刻々と二人の距離は縮まり、やがて師範代の間合いとなった。


 男である師範代と比して、女――それもまだ発展の余地を残すローザリッタはどうしても体格面で劣り、そこから生じる差はそのまま射程の不利に直結する。


 しかし、一方的に攻撃を仕掛けられる位置取りであるにも関わらず、師範代は攻撃を仕掛けなかった。


 優越距離とはいえ、攻勢に転じるには踏み込まなければならない。それはつまり、相手の間合いに飛び込むということだ。エリム古流は肉体の合理を極限まで追求した剣術。この程度の射程の有利は剣速で挽回されることも十分あり得る。


 何より、仕掛けるということは剣筋が定まるということ。

 後の先という言葉があるように、仕掛ける時機さえ捉えることができたのなら、後手に回っても技術論的に対処は可能なのである。


 ――例えば、〈切り落とし〉。


 対敵の上段に対し正対称の上段で合わせ、迎え撃った相手の太刀をしのぎを利用して脇へと逸らし、自分の打ち込みのみを有効にする攻防一体の絶技。師範代が優越距離にありながら攻撃を仕掛けないのは、この技を警戒しているからだ。


 とはいえ、ローザリッタからすれば、相手とって有利な距離を保ち続ける利点は何一つない。彼女は自分の間合いまで距離を詰めるしか選択がなく、それを冷静に待てる分、心理的な優位性は依然として師範代にある。


 更に距離が縮まり、相撃の間に到達する。


(――ここまでだ。ここからだ)


 ローザリッタは内心で呟く。

 あと一歩踏み込めば完全にローザリッタの斬り間になり、同時に師範代の間合いを殺すことができる。円運動は中心に近いほど威力が減じるが道理。今度は男性ゆえの射程の長さが仇になるのだ。


 だが、それは師範代も承知している。

 やすやすと懐へ入られる愚など犯すはずもない。下手にローザリッタが踏み込めば、その動き出しを抑えるつもりだ。

 加えて太刀取りは最速の上段。かわすことも、受けることも困難である。


 とはいえ、それは相手も同じこと。

 師範代が距離の利を取り戻そうと下がれば、即座にローザリッタが振り下ろす。

 両者、拮抗状態だ。


 ローザリッタの両眼は、師範代の動きを遠くに近くに捉え続ける。

 観の目付け、あるいは遠山の目付けとも呼ばれる、相手の全身を見渡す草食動物的な周辺視野だ。一点を凝視する中心視よりも感覚、知覚に優れているため外敵の接近をいち早く察知できるとされる。


 ベルイマン派においては、それを〈陽の目付け〉と呼ぶ。

 肉体の働きを陽、精神の働きを陰と大別し、行動を起こす時はそのいずれかに兆しが現れるとされる。膠着こうちゃく状態に陥った二人は、己の予兆を消し去ることに努め、相手の手の内を見抜くことに全神経を集中していた。


 ここからは精神力の戦いだ。

 先に仕掛けたくなる衝動を必死に抑え込み、機をうかがう。窺い続ける。


 長い静寂せいじゃくの後、ふと、拮抗が崩れた。


 ――ローザリッタの重心が半歩下がったのだ。


 当人の意図とは関係なく、優越距離。

 絶好の勝機が目前にぶら下げられ、師範代の肉体が本能的に懸かろうとする。


 ――釣られた!

 ――釣れた!


 甲高い音を立て、二つの剣閃が交差した。


 絶技が炸裂する。

 鎬によって軌道が歪められた師範代の切っ先は、ローザリッタの肩口をかすめて空を切り、逆に彼女の切っ先は彼の右手首を捉え――触れる寸前、ぴたりと止まった。


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