弐の太刀 妄執の蛮刀

第36話 街道を行く

 ――長生きしてね。

 それが、女が残した最期の言葉だった。


 彼にとって、女は唯一の肉親である。流行り病で両親を早くに亡くした彼を、二人に代わって女手一つで育ててくれた、かけがえのない家族であり恩人だ。


 彼女の死は、まだ若い彼には到底受け入れられるものではなかった。唐突に訪れた天涯の孤独に耐えられるほど老成も達観もしていない。後を追って、自分も命を断とうかとさえ心の底から思うほどの出来事だった。


 それくらい、彼にとって姉の存在は大きく、何よりも代えがたいものだったのだ。


 彼は悲しみに暮れながらも、姉の遺体を荼毘だびに付した。


 放置して腐らせてしまうのは忍びなく。

 遺体を動物に食い散らかされるのはもっと耐えられなかったから。


 薪の寝床に横たわる、ひどく瘦せ細った姉を見て思う。

 ――ああ、自分は愛されていたんだ。


 時に父のように厳しく叱り、時に母のように優しく包んでくれた姉。まだ幼い彼を養うために、身を粉にして働いてくれた姉。自分の幸福など一向に考えず、自分のための贅沢など一切せず、ただただ献身的に彼に尽くしてくれた姉。


 そんな姉の唯一と言っていい我が儘が、彼の長生きだった。


「……わかったよ、姉さん」


 すっかり小さくなって、すっぽりと骨壺に収められた姉に誓う。


 生きてやる。彼女が残した言葉の通り、誰よりも長く生きてやる。それが、これまで苦労を掛けた姉に対する、せめてもの供養になると思ったからだ。


 しかし――それが『呪い』と転じるのに時間はかからなかった。



 ■■■



 ピューイ、ピューイ……。

 笛の音のような鳴き声を響かせながら、一羽の鳥が霞かかった蒼天を舞う。


 大きな輪を描くような帆翔はんしょう。――猛禽類もうきんるいである。


 彼らは、小鳥のように忙しなく羽ばたきを繰り返すことはない。大きな翼で上昇気流を捕まえて空高く駆け、尾羽で気流を制御しながら、重力と風の力だけで滑空する。優雅に旋回しながら地上を睥睨へいげいする姿は、竜に劣らず、空の支配者と呼ぶに相応しい風格だ。


 彼らの主な獲物は、地上に棲む齧歯類げっしるいなどの小動物である。鳥類全体でも随一の滞空時間を誇る彼らは、その特性を最大限に活かして、死角となる上空から獲物を追跡するのだ。


 その飛翔能力の高さ故に、一羽ごとの縄張りも実に広い。声高にさえずっているのは、近くにいる同類に己の領分を主張しているのだろう。春になったとはいえ、まだまだ獲物となる動物の数はそう多くはないため、餌の奪い合いが起こることは必定。己が生き抜くためには、たとえ同種であっても蹴落とさなければならない。弱肉強食――人間の文化圏の外では、至極当然に適応される原初の理に従って。


 猛禽類が見下ろす地上は、菜種梅雨なたねづゆを吸ってすくすくと成長した青草でびっしりと覆いつくされていた。まるで若草色の絨毯じゅうたんを敷き詰めたような眺望ちょうぼうをしており、時折、最盛を迎えた菜花の群生が刺繍ししゅうのように白や黄色の色彩を浮き立たせている。


 空を行く狩人の視線から逃れるように、背の高い草陰に隠れてこそこそと移動する小さな影は齧歯類だ。雑食性で、草木の種子や果実、小型の昆虫など何でも食べる。今日は小さい前足をと動かして器用に穴を掘り、そこから顔を出した土壌生物をついばむことに専念していた。


 囀りが降り注ぐたびに齧歯類の耳がぴくぴくと反応する。上空の天敵の存在は感知しているようだったが、それでも食べることをやめる様子はなかった。この齧歯類は一日の大半を食事に費やす。食べ続けなければ餓死してしまうのだ。近くに天敵がいようといまいと、彼らが目の前にある食事を止める理由にはならない。


 あまりにも迂闊ではあるが、もともと多産多死による生存戦略で現代まで生き残った種。誰かが天敵に襲われたとしても、生き残った別の個体が子孫を残せればそれでいい。それこそ鼠算式に増える彼らは、天敵の存在によって適度に漸減ざんげんしていくからこそ、彼らに齧られる植物や昆虫たちは根絶やしにならずに済んでいるのだ。生態系と呼ばれる循環構造は、かくも不思議な均衡のもとで成り立っているのである。


 そんな苛烈な生存競争が繰り広げられている草の海の只中に、一条の空白地帯がゆるやかに伸びていた。――街道である。


 道幅は二台の馬車がすれ違うことができるほどの広さで、車輪が通りやすいように平坦に均され、土が固く敷き詰められている。ここまで地面が固いと草木も容易に根を張ることができない。いずれは風雨で軟化するとしても、ここが街道として機能している以上、この一帯に限っては緑が戻ることはないだろう。


 野盗団との初陣ういじん、そして無名の剣士との熾烈な一騎打ちに勝利を飾ったローザリッタは、従者であるヴィオラと、友人となったばかりのリリアムとともに、武者修行の旅を再開していた。


 野犬から逃げおおせるために分け入った獣道を遡って元の街道に合流、そのまま南下を再開。旅路は順調を極めており、恐ろしい野犬たちに再度鉢合わせることもなく、もうじき一刻が経とうとしている。


「あら?」


 道の先に何かを見つけたのか、ローザリッタが小走りに駆け出した。少し遅れて、ヴィオラもぴょこぴょこと揺れる馬の尾のような金髪を追いかけ、歩を速める。


 ローザリッタが駆け寄ったのは街道の脇。そこに、春草に埋もれてしまいそうな古ぼけた石碑が鎮座していた。


 ローザリッタがその前で足を止めると、のぞき込むように腰をかがめる。


 ――ここより先、ハッドロウ子爵領。


「……と、言われましても。感慨が湧きませんね」


 柔らかな日差しに照らされた表面に刻まれた文字を読みながら、ローザリッタは苦笑を浮かべた。石碑は、ここが領境であることを証明するための国境石だ。


「急にどうしたんだ、お嬢」


 やや遅れて追いついたヴィオラが、主人に問いかける。


「見てください。ここが、伯爵家の領地の終わりですって」


 ローザリッタが国境石を指さす。


「おう。そうみたいだな。……それで?」

「こうも地続きだと、伯爵領の外って感じが全然しないなあって」

「あー、なるほどなぁ」


 ローザリッタが言いたいことがわかったのか、ヴィオラが頷く。


「……そんなもんでしょうよ」


 二人と合流したリリアムが、つまらなげな口調で言う。

 それこそ、何の感慨もないのかもしれなかった。さもあらん。仇敵を探して各地を旅してきた彼女にとって領境を越えるなど今更のことである。


 国境石に刻まれてある文言通り、ここから先はハッドロウ子爵が管轄する領地だ。

 王侯貴族が治める領地と領地の境目は、地図上では一応の線引きされているものの、実際にと柵や堀などで明確に両断されているわけではない。山や川といった地形によってきっちりと区分けされている領境もあるにはあるが、平野部の場合はこのように石碑や立札で注意喚起する程度に留まっているのみだ。


 理由は単純で、厳密に隔てる意味がないからだ。

 貴族が管理する領土というものは広大で、人が住んでいる土地よりもそうでない土地のほうが圧倒的に多い。


 飢饉、疫病、闘争の三悪が不可避の悲劇として君臨している当世では、人口もまだ飽和状態には達しておらず、土地資源の全てを使い切らねばならないような未来はまだまだ先のこと。人間の生活圏のすぐ隣に人跡未踏の深い森が広がっているような現状で、わざわざ人と金を投じて領境を整地する必要がない。杜撰ずさんなのではなく、地方貴族の管轄の線引きなど、これで十分なのである。


「関所でもあればわかりやすかったかしら? 大昔はどこも通行税欲しさに領境に関所を設けていたらしいけどね。でも、そんなことをしたら、あちこち関所だらけよ。たまったものじゃないわ」


 レスニア王国における地方支配は、国王から統治を任命された伯爵家と、封じられた伯爵領を分割して与えられた複数の下位貴族たちによって管理、運営されている。


 もし、それぞれの支配者がぞれぞれの領境に関所を設置していた場合、一つの地方を巡るだけで膨大な通行税を支払わなければならないだろう。支配者にとっては何もせずとも税収が入ってくるのは大変結構なことではあるが、各地を転々とする旅行者や行商人からすれば迷惑な話でしかない。


 関所というものは正しく配置すれば国を守る力となるが、度が過ぎれば物流を途絶えさせ、経済を停滞させる。当然、国力は下がり、民草の生活は貧しくなる。そういう暗黒時代も、この国には確かにあったのだ。


 幸いなことに、近代の軍事方面の大改革に伴って領境の私関は撤廃され、現在ではこのように何もない状態になっている。ローザリッタのがっかりは、国をより善くしようとする先人たちの努力の産物と言えるかもしれない。


「……となると、お嬢が実感を持つのはもうちょい先になりそうだな」

「そうね」


 ヴィオラに同意しつつ、リリアムが鞄から地図を取り出した。二人に見えるように四つ折りの紙面を広げ、指で示しながら解説を始める。


「今いる場所がここね。このまま街道に沿ってハッドロウ子爵領を抜ければペタルダ地方への玄関口、ガリナ関所が見えてくる。そこから先は正真正銘、モリスト地方の外よ」


 現代の関所はほぼすべてが国営のものだ。王都を中心とした王族直轄地と、東西南北の四方に分割された地方との境目に設けられており、十二の関所が点在する。東のモリスト地方と南のペタルダ地方の狭間にあるのがガリナ関所である。


「ガリナ関所まで辿り着けば、当座の目的地である〈アコース〉は目と鼻の先。あたしらの旅の最初の一区切りだな」


 旅程の目測が立って安心したのか、ヴィオラがうーんと背伸びをする。


〈アコース〉はペタルダ地方における第二の都市であり、中核都市である〈ファルファラ〉へと繋がる街道が伸びている中継点でもある。最寄りの街の中では人と物、そして情報が豊富に集まる場所だ。人探しをしているリリアムからすれば、是非とも押さえておきたい場所だ。目的が果たせるにせよ、旅を続行するにせよ、しばらくは滞在することになるだろう。


「お嬢、いよいよだぜ」

「はい。他流と剣を交えることができるんですね」


 ヴィオラの言葉で、ローザリッタの顔に精気が戻る。

 強い剣士と手合わせをする以外、特に目的がない主従ではあったが、〈アコース〉を経由することは二人にとっても有益なことだった。何故なら、都市部には必ずと言っていいほど剣術道場があるからだ。


 地方貴族は国王から統治のための三権を与えられているが、同時に相応の義務も課せられている。その一つが兵役だ。特別な理由がない限りは、貴族の子弟は定められた期間、軍役に就かなければならず、それに備えて幼少の頃より武術の手ほどきを受ける。


 多くの場合において、それは剣術である。


 ベルイマン伯爵家のようにそれ自体が剣術流派の宗家であれば話は別だが、大体は専門の指南役を召し抱えて教育を受けさせることがほとんどだ。


 貴族の剣術指南役は在野の剣術家にとって最高峰の地位であり、その選定基準は特に定められていないものの、おおよそは地元の武術道場の中から優れた遣い手の中から選ばれる。外部の実力者を招聘しょうへいする場合もなくはないが、その土地の人材を徴用したいと思うのは人情だろう。言い換えれば、大きな都市には貴族の御用達の武術道場がある、という認識で間違いはない。


 見知らぬ土地に、未だ見ぬ剣術の遣い手たち。その姿を想像するだけで、ローザリッタの胸は熱くなる。


「実に楽しみです! さあ、張り切って〈アコース〉に向かいましょう!」


 意気揚々と拳を掲げるローザリッタとは対照的に、リリアムは小さく首を振った。


「そう一足跳びに行けないのが徒歩の旅よ。予定通り、今日の旅程は関所前の宿場町までで留めるわよ」


 リリアムが指先でとんとんと地図を叩いた。きれいに整えられた爪が示すのは、関所のやや手前に宿場町を示す図形だ。


「えぇー」


 肩透かしを食らったローザリッタは残念そうな声を上げ、ヴィオラは眉をひそめた。


「……えらく慎重だな。あたしらの足なら、ちょっと無理すれば〈アコース〉まで行けそうだが。村の人から分けてもらった糧食だって残っているし、わざわざ宿場町に立ち寄らなくてもいいんじゃないか?」

「買える安全は買えっていうのが旅の原則だからね。名君で知られるベルイマン伯爵領の街道は、風聞に違わずきちんと整備されていたけど、他領もそうとは限らないし」


 リリアムは手でひさしを作り、眼前に伸びる街道の先を見つめた。


 街道の状態は、為政者の力量を計る要素の一つである。

 王都と各地方都市を結ぶ〈新街道〉は国の管轄であるが、それ以外の街道――例えば、ローザリッタたちがいま歩いているような――はそれぞれの領主の管轄となる。


 きちんと整備が行き届いている街道は、領主によって定期的に視察団が巡回し、往来の妨げになる要因――例えば、道路の瓦解や不審者の目撃――を発見すれば、それに対処できる人材を送り、解決に当たらせることで治安維持を図っている。


 事実、ローザリッタたちはシルネオの街を旅立ってから、一度も騒動に見舞われることはなかった。あの野盗団との接触は偶発的なもので、野犬に襲われることがなければ、そもそも村が野盗の脅威に晒されていることにさえ気づかなかっただろう。マルクスの統治が行き届いていたからこそ、狡猾で、腕が立つ悪党しか残らなかったのである。リリアムが太鼓判を押すのも道理千万だ。


 しかし、これから先もそうであるとは限らない。街道整備が公共事業である以上、経営状態によっては十分な整備が行き届いていない可能性がある。道が荒れているかもしれない。ならず者の縄張りになっているかもしれない。快適な旅路が敷かれている保証はどこにもないからこそ、しっかりと計画した旅程と情報収集が重要なのだとリリアムは説いている。


「いやいや、関所まで続く要衝なんですから、さすがに道が荒廃していることはないと思いますよ。放置していたらお父様から怒られます」

「怒られるだけで済むかよ。下手したら改易かいえきもんだ」


 二人の言い分に、リリアムは肩をすくめた。


「悪路に踏み入ってからじゃ遅いってことよ。杞憂ならそれはそれで良いの。旅に関しては私のほうが先輩なんだから、黙って言うことを聞く」

「……はぁい」


 渋々という感じでローザリッタが応じる。


「というわけで、今日は宿場町まで頑張りましょ。この調子なら、どんなにのんびり行っても昼前には着くと思うわ」


 丁寧に地図を折り畳み、鞄に仕舞うと、今度はリリアムが先頭を歩き始める。

 ローザリッタは少し先を歩く少女の、細く小さな背中を見つめながら、その胸の内に思いを馳せた。


 彼女は、母親の仇を探して王国中を旅している。

 一つの王国から、たった一人の人間を探し当てるなど、まるで雲を掴むような話だ。それでも、彼女は探し出すことを決意した。その行為そのものが仇敵に対する憎悪と、母親に対する愛情の深さを伺わせる。


 そんな彼女にとって最も望まない結末が、望みを果たせず旅が終わってしまうことだ。


 一日でも早く仇を見つけたいはずなのに、一秒でも早く先に進みたいはずなのに――憎しみに身を焦がしながらも、その熱量に振り回されることなく合理的に、確実性のある道を選び続ける。その比類なき精神力の強さこそがリリアム最大の武器かもしれなかった。


(とにかく我武者羅がむしゃらだったわたしとは正反対ですね……)


 その克己心こっきしんの高さに、ローザリッタは畏敬の念を覚えずにはいられない。同い年でありながら、この銀髪の少女は自分の何歩も先を行く強靭な精神性を備えている。このような友人と共に旅をできるのはこの上ない幸運で、素敵なことのように思えた。


 だからこそ、いつかは肩を並べて歩きたい。

 今は後をついて行くことが手一杯でも、いつかは本当の意味で対等な存在になりたい。そのためには――


(修練あるのみ、です)


 ローザリッタは、そう改めて決意する。

 すると。


「う……っ!」


 突然、下腹部を抑えるような仕草をし、ぴたりと足を止めた。


「どうかしたんですか?」


 友人の不審な様子にローザリッタが声を投げかけると、どこか虚ろな目をしてリリアムが首だけを二人に向けた。


「……二人とも、ごめん。計画変更するわ。ちょっと急ぐわよ」

「それは構いませんが……一体何が?」

「そろそろだとは思っていたんだけどね……」


 ため息とともに続いた言葉に、ローザリッタとヴィオラは顔色を変えた。


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