第37話 宿場町〈ミノーズ〉

 宿場町は文字通り、旅籠はたごを中心に形成された町を指す。


 その成り立ちは古く、徴税のための街道が整備され始めた時代まで遡り、往来する人馬に便宜べんぎを図るために設けられたのが始まりだとされる。当初は、馬の給餌や乗り換えのための駅家に過ぎなかったと言われているが、時代を経るに従って文明が発達し、物流が活性化したことによって、より機能性を高めた『町』としての形態を取るようになっていった。


 そのような来歴故に、一口に宿場町と言っても、その規模は様々である。

 例えば、王都と地方を結ぶ主要道路であり、騎士団が進軍する際の軍用道路としても機能する〈新街道〉の宿場町は総じて規模が大きく、建ち並ぶ旅籠も絢爛豪華けんらんごうかなものが多い。部隊を率いる将校たちは貴族の出身であることがほとんどであるため、宿泊する施設にも相応の格式を求められるからだ。


 それに対して、地方領主が管轄する〈脇街道〉の宿場町は、その利用率に比例して、がらりと規模が変動する。極端に人の出入りが少ない地方では、雨露がしのげる程度の家屋と水飲み場だけを設置した、町としての体裁が整っていないような場所も少なからず存在する。


 その意味において、〈ミノーズ〉は実に平均的な宿場町と言えるだろう。


 寝泊まりする旅籠の数はもちろんのこと、当座の弁当や保存食、薬品といった旅には欠かせない物品を販売する商店、一息つくための茶屋などがいくつも軒を連ねており、立ち寄った旅行者の需要を過不足なく満たしている。


 そんな宿場町の外れに、ローザリッタたちが手配した旅籠はあった。


 木造二階建ての質素な造りの建物で、一度に十組は宿泊できる広さを備えているものの、外壁や柱にはいたるところに傷が入っており、ずいぶんと年季が入っている。老朽化と言えば聞こえは悪いが、昔から愛されてきた老舗の趣と言えなくもない。


 飾り気のない単調な外観ではあったが、中庭に一本だけ植えられている山桜が静かな風情を醸し出している。苔むし樹皮から察するに相当な古木。もしかすれば、この旅籠よりも年上かもしれない。


 南の空に昇った春陽が照らす枝先の花芽は、樹齢からは想像できないほど瑞々しい薄紅色に染まっている。今にも開きそうな蕾の膨らみを、ローザリッタはおとがいを上げてぼんやりと眺めていた。


「――お待たせいたしました、ローザリッタ様」


 そんなローザリッタの背中に、しわがれた声が投げかけられた。

 ローザリッタが振り向くと、中庭に続く縁側に旅籠の女将が立っていた。清潔そうにまとめられた髪は白く、肌に刻まれたしわも深い。高齢であることは間違いないが、背筋がしゃんと伸びているせいか、老人特有の弱々しい印象は受けない。


 その手には丸盆が握られており、盆の上には白い布で包まれた陶器の筒が載せられている。


「ご所望の湯たんぽでございます」

「ありがとうございます」


 ローザリッタは老女将のところまで歩み寄ると、お盆を受け取った。


「お手間をおかけしましたね」

「お気になさらず。お客様の要望に応えるのは、旅籠の務めでございますから」


 老女将は柔和な笑みを浮かべる。


「それにしても、お連れ様はずいぶんと重たい様子でございますね」

「はい。朝餉あさげも喉を通らなかったみたいで……あんなリリアムは初めてです」


 ローザリッタは気落ちしたようにうつむく。心配という文字が、表情にありありと浮き出ていた。


「それは心配ですね。では、食欲が出てきましたら、黒豆の煮つけを持っていきましょう。血を補うには黒豆が一番でございますから」

「それは助かります」


 老女将の提案に、ローザリッタは安堵したように口元が緩んだ。


「……ところで、桜をご覧になられていたのですか」

「ああ、はい。もうそろそろ花開きそうだな、と」

「懐かしゅうございますね。もう三十年ほど前になりますか。武者修行中のマルクス様も、この桜を眺めておられました。ちょうど、今のローザリッタ様のように」


 老女将は古い記憶を辿るように目を細め、風に揺れる桜を見やった。


「……こういうのを奇縁と言うのでしょうか。たまたま飛び込んだ旅籠が、まさか父に所縁のあるところだったとは思いも寄りませんでした」


 ローザリッタは宿泊手続きの時のことを思い出して苦笑を浮かべた。受付台帳に名前を書いた時、うっかり本名をそのまま記載してしまったのだ。


 無用な諍いを避けるため、素性は隠す方針であったのだが、生まれて初めて宿屋に泊まることもあってか、うっかり失念。律義に姓名まで書いてしまったばっかりに、すぐに伯爵家の人間であることが露呈してしまうという、大失態を犯してしまう。


 ところが、出迎えた老女将は貴人の突然の来訪に狼狽することはなく、穏やかな笑顔を浮かべて、かつてマルクスもここに泊まったことがあると彼女に伝えたのだ。


 近衛騎士団長にして、〈王国最強〉の剣術遣いと謳われるマルクスにも少年時代はある。元服を迎えた彼は伯爵家に代々伝わる約定に従い、ローザリッタと同じように武者修行の旅にで、数多の冒険と共に各地に足跡を残していた。ここもその一つだったのだ。


(……あなたも、きっとこの桜を見たんですよね)


 ローザリッタは腰帯に差した古銭刀に思いを馳せる。

 この太刀はもともとマルクスの愛刀だったもの。彼もこの太刀を携え、この桜を見上げたのだろう。


 そして、長い時を経て、彼の愛娘が同じ太刀を携えてここにいる。偶然で片づけるには出来すぎた再現。まるで見えない糸に導かれたような、運命めいたものをローザリッタは感じた。


「マルクス様も実直に姓名をお書きになられていました。正に親子でございますね」

「……実にお恥ずかしい」


 ローザリッタの頬が熱くなる。こういう失態で親子の繋がりを意識してしまうのは、思春期の少女にとって何とも居たたまれない。


「ですが、せっかく縁があるのです。大々的に宣伝したらどうですか。お父様は、民が武勇伝を活用することは禁じていませんよ」


 マルクスは己の武名を地方経済の活性化――すなわち観光資源として使うことを黙認している。そうでなければ〈シルネオ詣で〉なる文化が生まれるはずもない。


「……確かに、これを伯爵桜とでも銘打てば、確かに、もっとお客様が来るかもしれません。そうすれば、この年季が入った宿も改築できるほど潤うでしょう。……しかし、伯爵様はこの素朴さが良いと仰って頂いたので、できるだけそのままにしたいと思っております」


 それに、と老女将は続ける。


「この〈ミノーズ〉はハッドロウ子爵の預かり。それを差し置いて他家の名声を利用しては、領主様の沽券に関わりましょう」


 ローザリッタははっとした。ここは、もはや彼女の故郷であるベルイマン伯爵領ではない。この土地に暮らす人々には、この土地に暮らす人々なりの矜持がある。老女将の言葉はこの町に対する誇りに満ちており、自分の発言はそれを傷つけるものだ。


「……不躾な申し出でした。己の軽慮浅謀けいりょせんぼうを恥じるばかりです」


 ローザリッタは真摯に頭を下げた。老女将の眉が驚いたように跳ねるが、すぐに微笑に戻る。


「貴人が下々の者に対して、無暗に頭を下げるものではありませんよ。ですが、生まれを笠に着ない、節度ある振る舞いこそが、ローザリッタ様の徳なのでしょうね」


 老女将は諭すように言った。天地ほどに身分が離れた少女に対して、必要以上にへりくだることも、媚びることもない。一人の人間として気高さを感じる。


 なるほど、お父様が気に入るわけだ、とローザリッタは得心した。

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