第38話 女の旅の受難

 ローザリッタは盆の上の陶器の筒を落とさないように用心しながら、片手でそっと部屋の戸を開けた。


 彼女たちが取った部屋は質素ではあるものの、三人が泊まっても広さに十分な余裕が感じられる構造をしている。単に大部屋だからというわけではなく、意図して定員人数以上の空間を設けられているようだ。


 その訳は、窓際に鎮座した竹組みの物干しを見ればわかるだろう。贅沢とも言える空間の余剰は室内で洗濯物を干すことを目的としているのだ。現に、物干しには生乾きの短袴たんこや帯、黒い下着が無造作にぶら下がっている。


 既に二組の布団が畳んで隅に寄せてある中、リリアムだけが寝床に体を横たえたまま、苦しそうな表情でぐったりとしていた。顔色は青ざめ、眉間に皺を寄せて瞳を閉じている。いつもは丁寧に梳いて二つに結っているはずの銀髪も解かれたままの状態で無造作に投げ出されており、一目で具合が悪いことが伝わってくる。


 ローザリッタは寝ているリリアムに不快な刺激を与えないよう、足音を立てないまま部屋の中に入った。空を駆ける跳躍術を支えるのは鍛え抜かれた全身の筋肉と緻密な身体制御。それを応用すれば常人ではまず察知できない隠形の歩法も可能だ。


「……なに?」


 枕元まであと数歩のところで、リリアムの肩がぴくりと震える。長いまつげが揺れ、まぶたの下から紅玉を思わせる真紅の瞳が覗いた。


(――こんな時でも、気配に反応できるのですね)


 本調子でないにも関わらず、リリアムはローザリッタの接近を察知したことに感嘆を覚える。武術を修めた者は誰しも常在戦場の心構えをしているとはいえ、自分があの状態だったら果たして反応できるだろうか。相変わらずこの少女の実力は底が知れない。


「……どうしたの?」

「お待たせしました。お店にお願いして、湯たんぽを借りてきましたよ」


 ローザリッタはリリアムのそばに膝をつくと、盆に載った陶器の筒をやんわりと差し出した。中には湯が入っており、ほどよく適温まで冷まされている。


 リリアムはのろのろと湯たんぽを受け取ると、抱きしめるようにして下腹を温め始めた。


「うー、あったかい……」


 リリアムの顔に張り付いた苦悶くもんが少しばかり和らぐ。

 到着したばかりの時はてきぱきと旅籠を手配していたリリアムだったが、時間が経つに連れて体調は明らかに悪化していき、一晩が過ぎる頃にはこの状態だった。


 とっくに日は昇っているというのに布団から起き上がることもできず、出された食事さえ一口も手をつけていない。それだけで、いかに尋常な状態でないことがわかるだろう。


「リリアムは二日目が辛い人なんですね」


 頬に張り付いた銀糸をそっと掻き分けながら、ローザリッタが尋ねる。


「……ええ。二日目以降は何とかなるんだけど……今日一日は、はっきり言って動きたくないわね」


 かつてないほど生気を失った表情で答えるリリアムを、ローザリッタは気づかわし気に見つめた。


 女性の旅人にとって、月のものは避けては通れない命題だ。


 生理中は体調が思わしくないだけでなく、血の匂いが獣を呼び込んでしまい、必要以上の危険を招いてしまう恐れがある。当日の終着と想定していたとはいえ、安全優先のリリアムが予定を変更して宿場町まで駆け込んだのはそういう事情だ。


 道中の不要な危険を避けるため、女性の旅行者は生理周期を念頭に入れて旅程を組むわけだが、現実はそう都合よく事は運ばない。旅という非日常の負荷が原因で周期が狂うこともあるし、天候の変化などやむを得ない事態で足止めを食らい、予定通りの旅程を消化できない場合もある。


 体調のままならなさを抱える女旅行者にとって、宿場町というのはとてもありがたい存在だった。宿泊に特化しているため長逗留しやすく、そこを拠点に旅程の再調整を図ることができる上、旅籠はたごによっては女性専用の部屋を設けているところもあるからだ。この古宿もそうである。


 三人が取った女性客用の部屋は男性部屋とは別棟で、室内干しできる広い間取りのお陰で汚れた下着を衆目に晒すこともない。他にも便所がすぐそばにあったり、備品として油紙や布が十分に用意されていたりと細々した配慮に事欠かなかった。歴戦の趣があるだけに便宜べんぎの質は一流である。


 ……もっとも、長期滞在が前提となってしまうため、どうしても費用はかさんでしまうのだが。


「……悪かったわね」


 ぼそり、とリリアムが呟いた。


「え?」

「本当なら、今頃は関所の向こうだったのに。足手まといになっちゃってごめんなさいね。先輩風を吹かせておきながら、この体たらく。恥ずかしいったらありゃしないわ……」


 リリアムらしくない自責じみた吐露。体調の均衡が崩れている時は、精神面にも大きく影響が出る。卓越した剣術遣いとはいえ、彼女もまた一人の女。十六の小娘に過ぎないのだ。


(旅を中断されて一番歯がゆい思いをしているのは、当の本人だろうに……)


 旅慣れしているリリアムが自身の生理周期を把握していないはずはない。〈シルネオ〉を発った時も、それを見越した旅程を綿密に組んでいたことだろう。


 ただし、それはあくまで一人旅での話。

 急遽、ローザリッタたちが同行するようになったばかりに事前に立てていた旅程が狂ってしまったのだ。


 特に、先日の野盗退治などは間違いなく想定外の足止めだったに違いない。それ自体は彼女の合意はあったとはいえ、ローザリッタの胸の内には感じる必要のない申し訳なさが溢れてくる。


「……そんなに自分のことを悪く言わないでください。わたしの対戦相手は逃げませんから、リリアムが気に病むことなんてないです。今はただ、自分の身体だけを案じてください」


 気弱になった友人を心配させまいと、ローザリッタは努めて笑顔を浮かべた。


「これから、わたしとヴィオラは情報収集と買い出しに行ってきます。リリアムはこのまま養生してくださいね」


 ローザリッタは立ち上がる。リリアムが不調な今こそ、彼女の代わりにできることはできる限りやっておきたかった。


「あ、待って」


 部屋を後にしようとしたローザリッタを、リリアムが呼び止める。


「なんです?」

「――ローザ、ありがとう」


 リリアムの口からすんなりと出た感謝の言葉に、ローザリッタはどきりとする。


「そんなこと……いつもリリアムには助けてもらっているんですから、当然です」


 そう言って、ローザリッタは笑った。

 その言葉は本心だったし、実を言えば、憧れの女性の役に立てることが少しだけ嬉しかった。


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