第11話 森籠り

 ――森籠もりごもり。

 文字通り、裏手の森に籠って修行することである。


 それが許されるのは、奥義を学ぶ伝位になってからだ。


 この段階になって初めて、弟子は己が学んだ剣術が実は竜殺しを目的としたものであると師から明かされる。


 わざわざ継承場所に森を選んでいるのは、その秘事ゆえに万一の漏洩に備えているのと、その実践を行うためだ。


 森に籠る期間は弟子の実力によって差がある。

 早ければ数日、長ければ数ヶ月をかけてエリム古流本来の遣い方を学ぶ。


 無論、教わったからと言って確実に修得できるとは限らない。


 努力の甲斐虚しく、修行半ばで墜落死する者もいる。

 奥義の継承はそれほど過酷なものなのだ。


 奥義の鍛錬は森の中でのみ許されているため、ここ数年、ローザリッタは道場よりも森での鍛錬することのほうが多かった。


 勝手知ったる森の中とはいえ、長期の滞在は奥義継承以来である。


 朝日が昇って間もない時刻から、早速ローザリッタは修行を開始した。


 ――まずは、水行すいぎょう


 森を流れる小川のほとりに湾処わんどと呼ばれる天然のせきがあり、ローザリッタは道着のまま水の中に半身を浸す。


 春先の冷たい水はあっという間に彼女の体温を奪っていくが、これも精神修養のうち。ローザリッタは歯を食いしばって身を裂くような寒さに耐える。


 耐えるだけでは終わらない。

 ローザリッタは木刀を執って、そのまま水中で型稽古を始めた。


 この水行は、ベルイマン派における肉体作りの基礎の応用である。

 水の抵抗によって足腰に負荷がかかるが、浮力が働いているため関節を痛めにくいという非常に合理的な鍛錬だ。


 水の中で力任せに動いていては、型は一刻と続けていられない。

 この状態で長く動き続けるためには、より効率的で無駄のない動きをする必要がある。

 つまりは『動作の最適化』だ。


 これは肉体作りであると同時に、四方三間さんけん道場と同様の最短、最小、最速の体捌きの獲得を目的とした鍛錬法なのである。


 ――次に、走り込み。


 ローザリッタは森の中をひたすらに駆け巡る。


 舗装ほそうという概念とは無縁の原初の大地。

 段差、傾斜、障害物。

 起伏に富んだ不自由な地形は、二本脚の人間にとってはただ走るだけで苦行そのもの。平坦な道を一定の速度で走るのとはわけが違い、極端な緩急の変化が体力を奪っていく。


 野駆けに没頭していたかと思えば、ローザリッタは今度は木登りに取り掛かった。

 樹齢何百年はあろうかという大木を、わずかな足場を頼りにすいすい登って行く。その姿は栗鼠りすのようだ。


 無論、遊んでいるわけではない。

 登攀とうはんには総合的な筋力が必要であり、同じく全身運動である跳躍を鍛えることにも繋がる。


 そして、登攀そのものにも意味はあった。


 有翼の〈神〉と競り合うためには、どれだけ鍛えたところで、人間の跳躍力だけでは高さが足りない。


 距離を稼ぐために、高い足場に迅速に辿り着くこともまた重要な要素であった。

 これは〈空渡り〉の本質を知る奥義継承者ならではの訓練と言えるだろう。


 ――更に、瞑想。


 ローザリッタは岩の上に座り込み、瞳を閉じて精神統一を始める。


 人間は自分の体の寸法を意外なほど把握していない。

 箪笥たんすの角で小指をぶつけるなどは正にその典型だろう。一寸の間合いを奪い合う真剣勝負において、それは致命的な隙だ。


 ローザリッタは深く、静かに呼吸を巡らせて意識を体内に向ける。


 血管の一本、筋繊維の一筋に至るまで掌握する感覚を養う。

 何も激しく動き回るだけが修行ではない。自分の肉体を自由自在に動かすためには、静と動、どちらの鍛錬も必要なのである。


 ――最後に、素振り。


 極限まで鍛え、研ぎ澄ませた肉体を、剣を振るという動作に集約させていく。


 一切の無駄を排した太刀筋は神速の域。

 最適化されればされるほど、一振りにかける時間は短縮され――その結果、長く、速く振り続けられるようになる。


 それを幾百、幾千と繰り返す。


 ――



 ◆◇◆◇◆◇



「……それにしても、なんであたしまで森に籠らなきゃならんのか」


 庭先で、米を炊いていたヴィオラが独り言ちた。

 裏手の森には、森籠りで使う小屋がある。寝泊まりをするだけの簡素な造りで、かまどもないため、煮炊きは外で行わなければならない。


 それ自体は知っている。ヴィオラもまた奥義の伝承者。ここでの修業は初めてではないし、昨日も主を追いかけて踏み入れたばかりだ。


 ローザリッタが森籠りをするにあたって、ヴィオラもそれに伴うよう命じられた。正確には厳命された。拒否権はない。


 私有地とはいえ森は森。

 古来より森は神域――獣の世界だ。


 誰か一人くらいは側に控えていなければいざという時に困る。

 当然の配慮といえばそうなのだが――ついつい、別にあたしじゃなくても、と思ってしまう。


 だが同時に、それが自分にしかできない役割だとも自覚していた。


 女主人の世話というものは異性では都合が何かと悪い。

 物理面においても、精神面においても。肉親であれば問題はなかろうが、領主は何かと多忙な身。いつでも付き合えるわけではない。


 同性で、しかも、この森に足を踏み入れることを許されるほどの剣士兼従者はヴィオラしかいないので、この采配は至極真っ当なものだろう。


「……よくやるもんだ」


 視界の端で素振りを続けるローザリッタを捉えながら、呟く。

 正直なところ、ヴィオラには段々と灯篭斬りの真意について、ある程度の予測が立っていた。


 ――その予測が正しければ、


「とはいえ、見当違いの場合もあるしな」


 断言できないのは、ヴィオラが皆伝の試しに挑戦したことがないからだ。


 周囲からは強く勧められたが、必要ないと感じて断った。

 一時期は天才剣士と持てはやされ、奥義さえ伝授されてはいるものの、わざわざ印可を得ることは自分の役割ではないと思ったのだ。


 何故なら、自分の役割は誰かに剣を教えることではなく。

 このお嬢様を守ることなのだから。


 ――十年以上前のことである。

 当時、ヴィオラは孤児だった。悪童と言い換えてもいい。


 両親を流行病で亡くした彼女は、親戚中をたらい回しにされた挙句に孤児院に預けられたのだが、そこでの生活に馴染めずに逃げ出した。食いつなぐために窃盗を繰り返し、武装警吏から何度も追い掛け回されたものの、天性の足の速さと身のこなしの軽さでその都度逃げ遂せた。


 自分の足は風よりも速い。自分を捕まえられる者など誰もいない。

 有頂天になったヴィオラは不敬にも領主の家に盗みに入り――そして、あっけなく捕まった。他でもない、マルクスの手によって。


 家族も居場所も何もかもなかった自分が、唯一の誇りに思っていた足の速さ。自信を粉々に打ち砕かれて消沈するヴィオラに、マルクスは笑って言った。


『そなたを罰するのは簡単じゃが、その才は惜しいな。どうだ、そなたの命、儂のために使ってみないか?』


 酔狂な貴族がいたものだ、と呆れながらもヴィオラは提案を受け入れた。

 どのみち提案を受けねば処罰される。あくまで逃げ出すための方便だ。隙をついて逃げ出してやれ――と、その時は軽く考えていた。


 が、いざ蓋を開けてみれば、そんな隙はどこにもなかった。マルクスには遠く及ばなくとも、館の住人は軒並み化け物揃いだったからだ。逃げ出そうとするたびに誰かしらに捕えられ、反省室に押し込められる。その繰り返し。


 彼らの強さの秘密は、どうやら伯爵家伝来の剣術にあるらしい。

 ヴィオラは提案通りにしぶしぶエリム古流を学び始めた。他にも女中としての技能や、生きていくための勉学にも取り組んだ。心を入れ替えたと見せかけて、隙を窺うために。


 館での生活は慣れない苦労の連続だったが、周囲の協力もあってヴィオラは着実に人間としての力をつけ始めていた。口の悪さはなかなか改善しなかったものの、領主は『まあ、そういうのが一人くらいいてもいいだろう』と笑って流した。


 仕事を覚え、役割を与えられ、日々の暮らしに意義を見出し――気がつけば、伯爵家はすっかり彼女の居場所となっていった。


 ――その時には、もう逃げ出そうなどと考えなかった。


 人間らしい生活を手に入れたことで、これまでに自分がしでかした悪行に苦しむこともあった。自責の念に苛まれ、枕を濡らしたことも一度や二度ではない。だが、それ以上に誰かに仕えることは彼女にとってとても幸福だった。


 そして、最強の剣士から託された。

『どうかローザリッタを支えてやってくれ』と。


「あたしは、お嬢にどうなってほしいんだろうな……」


 ヴィオラはマルクスの言い分は正しいと考えている。


 家が傾けば、民の生活が傾く。為政者として、お家の安泰が一番だ。

 そもそもにおいて、ローザリッタが。彼女は彼女にしかできない当主としての役割を果たすだけで、十分に領民の生活を守ることができる。


 とはいえ、ローザリッタともそれなりに長い付き合いだ。

 彼女がなぜ自らの手で守りたいと願っているのか、その理由も知っている。侍女として、姉代わりとして彼女の望みを叶えてあげたいというのも偽らざる本心だった。


 その葛藤が、ヴィオラの口を閉ざす。

 日和見と蔑まれてもしょうがないことは、彼女が一番理解していた。

 だが、どんな結末になろうと、変わらないことが一つだけある。


「……あたしが側についてやらなくっちゃな」


 それが、ヴィオラの新しい誇り。

 学もなく、礼節もなっていない自分を、それでも侍女として使い続けてくれる主に報いるには、それを貫き通すくらいしかないのだから。


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