壱の太刀 無名の堕剣

第17話 夢の庭園

 早春の昼下がりのこと。

 年季の入った植木ばさみを手にしたマルクスは庭園の薔薇ばら剪定せんていしていた。


 日除けの帽子に、首に巻いた手拭い。さらには薄汚れた野良着。そのみすぼらしさは庭師さながらである。今のマルクスを見て、ベルイマン伯爵本人と気づける人間がどれほどいるだろうか。


 領主らしからぬ服装に対し、周囲の者も何も言わなかった。

 敷地内なので外部の人間はまず入ってこないし、何より、その格好で土いじりをするのは、ある種の伝統だったからだ。


「ふむ。このあたりも要らんな」


 ぱちん、と細い枝を落とす。


 本来、薔薇の剪定は芽が出始める前の寒い時期に行うものである。


 しかし、今年の冬はローザリッタの元服問題を含め、領主として多忙だったために完全に終えることができずにいた。


 庭師を使えば早い話ではあるが、他の場所はともかく、この中庭の一画だけはマルクスが直々に手入れをすると決めている。


 休眠状態に入って栄養を溜めている冬場と違い、すでに植物が活動を再開している春の剪定は最小限に留めなければならない。マルクスは慣れた手つきですでに枯れている枝や、弱って枯れそうな枝のみを的確に切除していく。


 ぱちん、ぱちん。


(……はて。今日はずいぶんとはさみの音が響くな)


 思わず、鋏の手を止める。

 しばらく立ち止まって耳を澄ますと、その疑問が解けた。


 至極単純な話。

 鋏の音がよく聞こえるくらい、だった。


 いつもなら、ローザリッタが走り回る音や、それをいさめるヴィオラの声が屋敷の外にいても聞こえてきたものだが、数日前から二人は武者修行に旅立っている。そのおかげで、ここ数日の伯爵邸からは火が消えてしまったように音が無くなってしまった。


(なるほどな。寂しいのか、わしは)


 ローザリッタの頑固さには散々手を焼いてきたが、それでも可愛い娘である。

 普段からうるさいと感じるくらいのやりとりが聞こえてくるということは、それだけマルクスが彼女のことを気にかけて、耳をそばだてていたからだ。


 いつも在る。いつまでも在る。

 そうと思っていたものが、ぽっかりとなくなった時のわびしさ。


 娘が嫁に行ってしまった父親の気持ちとは、こういうものなのだろうか。別にローザリッタは嫁いだわけではないが。


(まあ、おかげで、ゆっくり薔薇の世話もできるというものだ)


 娘離れできていない事実を誤魔化すように、マルクスは鋏を動かす手を再開した。


 やるべきことは、剪定だけではない。

 草を抜き、追肥して、芽かきを行う。

 薔薇という植物はとにかく繊細で、綺麗に花を咲かせようと思えばいくらでも手間暇をかけなければならない気難しい花だった。


 統治権の一部を都市部へ限定委託してはいるものの、それでもマルクスにしかできない仕事は山積み。

 多忙な為政者いせいしゃが道楽で育てるには不向きな代物――しかし、それでもマルクスは時間の許す限り、この庭園を世話すると決めていた。


『――ここに花を植えていいですか?』


 この庭園の起こりは、早二十年前。

 伯爵家に輿こし入れした妻が、最低限の手入れしかしていない中庭を見て、そう言ったのが始まりだ。


『実は私、広いお庭がある家に嫁いだら、花を育てるのが夢だったのです』

『ふむ。それは構わないが、何を植える?』

『まずは赤と白の薔薇。そして、ゆくゆくは浅紅色の薔薇を』

『なるほど、そなたらしい色の考えだな。だが、すべて薔薇ではないか』

『はい。憧れなのです』

『……薔薇は素人には難しいと聞くぞ。最初はもっと簡単なものから始めたらどうだ?』

『それは重々承知しています。でも、やってみたいのです』


 マルクスの助言も聞かず、妻はその日から庭師の力も借りることなく、自分の力だけで庭園を造り始めた。


 夢だったと語った通り、彼女はこれまで一度も植物の世話をしたことはない。


 せっかく苗を植えても、水をやりすぎて根腐れさせてしまったり、害虫に食われてしまったり、病気になってしまったりと、なかなかうまくいかなかった。


 それでも妻は決して諦めることなく試行錯誤を続け、みすぼらしい野良着をまとって土に汚れながら、数年をかけて花を咲かせることに成功した。


 その時の妻の得意気な顔は、いまでも鮮明に覚えている。


 だが――庭園が完成する前に、妻はこの世を去ってしまった。


 それは、マルクスが不在中に起こった悲劇である。


 その時、彼は天覧てんらん試合に参加するために王都へと出向していた。


 すでに現役を退いていた彼ではあったが、参加は国王直々の勅命ちょくめいであったし、そうでなくとも〈王国最強〉と呼ばれる自分が出場さえしないのは、当流の誹謗ひぼうに繋がると考えたからだった。


 妻と幼い娘の元を離れるのに、不安がなかったと言えば嘘になる。しかし、マルクスにもまた家の信用を守る責務がある。


 二人を家の者たちに任せて天覧試合に臨み――そして、二つ名に恥じない戦いを繰り広げ、未だ〈王国最強〉は顕在けんざいであると再び世に知らしめた。


 栄光。歓喜。名声。

 人生の頂点とも言える喜びから一転――飛び込んできた妻の訃報が、彼を絶望のどん底に突き落としたのである。


 ……この時ほど、マルクスは自分の選択を恨んだことはない。


 屋敷を空ける不安は確かにあったのに。

 自分が傍に居さえすれば、こんなことにはならなかったはずなのに。


 王の信任。伯爵家の名誉。

 夫としての感情ではなく、大義名分を優先したマルクスを嘲笑うような悲劇的な運命だった。


 ローザリッタの武者修行に反対したのは伯爵家存続のためだけではなく――二度と、自分の手の届かないところで、愛する家族が死んでほしくなかった気持ちの表れだったのかもしれない。


 以降、マルクスは公の場で剣を取ることはなくなった。


 国王も彼の意を汲み取り、天覧試合への参加を命じることは二度となかった。


 そして、無敗という事実だけが残り――生きながら信仰の対象となったが、最強の称号などに未練はなかった。

 それで都市の経済が活発になるのであれば、観光資源にでもなんでもしてくれと冷ややかに思うようになった。


 ――儂が〈王国最強〉など笑わせる。

 愛する女一人守れない。それどころか、看取ることさえできなかった男だ。


 マルクスにとって重要なのは、守るべき時に、守りたい者のそばにいること。


 守るために強くなりたい、というローザリッタの想いは理解できる。

 だが、どれだけ強くなったところで、


 己の無力さを起点とするローザリッタの想いと、力を有しながらも守る機会を逸したマルクスの想いは決して交わらない。


 それでも、ローザリッタは旅に出た。

 他ならぬ、マルクスが許した。


 もう一度、同じ悲劇が起こるのではないかという不安もあった。

 それでも、ローザリッタがことには何らかの意味があるのではないかと思った。自分は負けてしまった運命を斬り開けるのではないか。そう信じさせてくれる一太刀だったのだ。


(あれは、お前の意思だったのかもしれんな、イングリッド)


 今は亡き妻に思いを馳せる。

 生きていれば、妻は何と言うだろうか。


「……愚問だった。薔薇の世話など素人には無理だと言っても、決して諦めなかったものな、そなたは」


 マルクスは苦笑を浮かべた。

 ローザリッタの頑固さは間違いなく母親譲り。だとしたら、マルクスが賭けに勝つ確率は最初からなかったのだ。


「む?」


 風が吹き、陽が陰った。

 顔を上げると、西の空にすみ色の雲が泳いでいるのが見える。


 ………ローザリッタたちが歩いている方向だ。


「一雨降るか。まあ、あやつらなら大丈夫だろうよ」


 そうひとち、マルクスは庭園の手入れに戻った。

 他人の道行きを心配してる暇はない。雨が降ってくる前にこちらも片付けなければ。今を逃せば、また政務に追われる日々がやってくる。


「……やれやれ。早く隠居したいものだ」


 妻が遺した夢の庭園を守りながら、ここで娘の帰りを待つことが、今のマルクスの日常だった。

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