第18話 旅の空の下

 薄墨うすずみを流したような雲が空を覆い始めていた。


 まだ昼餉ひるげ前だというのに周囲はどこかほの暗い。湿り気をはらんだ生暖かい風が、咲いたばかりの田打ち桜を揺らしている。


 今にも泣き出しそうな空の下。

 シルネオの街から真っ直ぐに伸びる街道を、三人の女が歩いていた。


 一人はローザリッタ。

 もう一人はその従者であるヴィオラ。

 そして最後の一人は、再会を果たした放浪の剣客、リリアムだ。


 故郷を経って初めての夜を乗り越えた主従であったが、感慨を抱く暇はなかった。リリアムに促され、朝餉あさげもほどほどに歩みを再開する。


 季節は早春。

 夏に比べれば、陽が落ちるのがまだまだ早い。また、この雲行きでは雨で足止めされる恐れもある。歩けるうちに歩くのが旅の鉄則だ。


 それにしても、一行の足並みは速かった。

 荷物を抱えているというのに、誰も息一つ乱していないのは、その三人ともが鍛え抜かれた一角の剣士だからだろう。


 それどころか――


「ねえねえ、リリアム。一回手合わせしましょう!」


 声を弾ませてリリアムに付きまとうローザリッタは、遊んでくれとせがむ仔犬を思わせるほどに元気いっぱいである。


「嫌よ」


 リリアムはローザリッタのほうを振り向きもせずに即答した。視線は手元の地図に注がれたままだ。


「何も本身ほんみでなんて言いません。そう、木刀。木刀でいいんです。一回くらいいいじゃないですか? ね?」


「得物が何であっても、嫌ったら嫌なの」


「……お嬢、それくらいにしとけよ。リリアムが困っているだろ」


 少し離れたところから、事の成り行きを見守っていたヴィオラが苦笑めいた表情で口を挟む。


「だって、初めて出会った時から、この人は只者じゃないって直感していたんです。あの時は立場が立場でしたから、手合わせをお願いするのは遠慮しましたけど」


「当たり前だ」


 主の言葉に苦笑を通り越して、呆れ顔を浮かべる従者。


 この時代、他流試合はそこまで厳格に禁止されているわけではない。


 ローザリッタが元服前に考えていたように、他流と剣を交えることは技の上達に直結するからだ。


 とはいえ、他流の前で技を見せることは術理の漏洩や解析に繋がり、流派の衰退につながる恐れがあるため、どれだけ実力があっても、皆伝に至らない者が師の許しを得ずに独断で他流と戦うことはできない。


 また、試合を申し込まれた側も、誰彼構わず受けてしまえば収集がつかなくなるため、著名な師に教えを受けた過去があったり、高い伝位を持った者しか相手にしないのが常である。


「ですが、今は晴れて武者修行中の身。きちんと他流相手に技を使う許しを得ています。手合わせを申し込んだって文句を言われる筋合いはありません。せっかく一緒に旅をしているんですもの、時間と機会は有効に使いませんと!」


「だーかーら、しないっての」


 リリアムがうんざりしたように手を振った。


「私はあくまで自衛のため、目的のためにしか剣をつかうつもりがないの」


「そんなぁ……」


 しょんぼりという擬音が聞こえてきそうなほど落胆するローザリッタに、リリアムは盛大に溜め息を吐く。


「言ったでしょ、剣の高みを目指す剣術遣いは反吐が出るほど嫌いだって。あなたは、その先に『誰かを守る』っていう確固たる信念があるから、それを飲み込んで旅に同行してあげているのよ。少しはありがたいと思ってよね」


「それは確かにありがたいとは思っていますけど……それじゃあ、いつになったら、わたしは実戦を経験できるんですか?」


「そんなの知らないわよ」


 ローザリッタの疑問をリリアムはばっさりと切り捨てる。


 世をさすらう先達として、旅の素人二人組を見捨てることはできなかったが、そこまで面倒を見る義理はない。


「……まあ、真面目な話、しばらくその機会はないんじゃない?」


 義理はないが、遊んでもらえなかった仔犬のように肩を落としているローザリッタをそのままにしておけないのも、彼女らしい優しさなのだろう。


「私が歩いてきた限り、モリスト地方は余所に比べて随分と治安がいい。領主一族の管理が行き届いている証拠ね。立派なことだわ」


「いやあ、そう言われると……」


 照れたように後頭部を掻くローザリッタに、リリアムが怪訝けげんそうな顔をする。


「……なんでローザが照れるのよ。私は領主様を褒めたのよ?」

「あ、いえ……領民として誇らしいな、と」


 誤魔化すように、ローザリッタはぱたぱたと手を振った。


 リリアムはローザリッタのことを、未だにと認識したままである。


 道中に、ローザリッタが正式な身分を明かさなかったからだ。


 貴族という血筋は特権を有するが故に、何かと騒動を呼び込むもの。

 まして、その跡継ぎが、護衛もろくにつけずに旅をしているなどと知れては災いの元である。いたずらに真実を打ち明けるべきではない。


 世話になっているリリアムに隠し事をするのは気が引けたが、身分を明かしたばかりに、知らず知らずのうちに彼女が危険に晒されるような事態だけは、本心を曲げてでも避けたいことだった。


 だって――


「……そ。でも、もう少しすると領地の境になる。そういうところはね、どうしても管理の目が行き届きにくくて、問題が起きやすいのよ」


「確かに、そろそろハモンド地方との境界ですね。目的地はアコースですか?」


 リリアムの地図を肩越しにのぞき込んだローザリッタが尋ねる。


 ちなみにアコースとは、ハモンド地方の行政都市の名だ。


「ええ。私は人探しが目的だけど、あなたたちも対戦相手を求めるなら、人が多いところがいいでしょう?」


「それなら、西に進んで王都を目指したほうが良いんじゃないですか?」


「私は王都出身なのよ。だから、そっちのほうは捜索済み」


「……ああ、なるほど」


 ローザリッタは脳内でレスニア王国の平面図を広げた。


 その版図はんとは王族管轄領を中心として、中央の領地を上級貴族たちが、その外側を――いわゆる地方をそれ以外の貴族たちが管理する構図になっている。


 ベルイマン伯爵家が治めるモリスト地方は東の果て。

 その行政都市たるシルネオを、リリアムは一番の目星と語っていた。つまり、彼女は王都から真っ直ぐ東に向かったと言うことだ。


 となれば、今後の旅程は南、西、北の右回りか、北、西、南の左回りのいずれかになる。そして、ローザリッタが言ったハモンド地方は右回り――南側だった。


「北を選ばなかった理由は?」


「人口の問題ね。北のヤサカ地方や西のイール地方はあまりにも田舎すぎるから。私が追っている男は、剣の高みに至るために強い相手を求めている。人口が少ないってことは、それだけ強い剣士と出会う機会も少ないってことでしょ。なら、人の多いところに行くと考えるのが自然だわ」


「田舎と言う意味では、モリスト地方も結構な田舎ですが……」


「でも、〈王国最強〉がいるでしょ」


「そっか。だから、一番の目星だったんですね」


 ローザリッタは納得したように頷く。


 剣士の名誉を賭けて戦うのならば、彼女の父はこの国において、この上ない存在と言えるだろう。


「そういうこと。……まあ、はずれだったけどね」


 小さな唇から漏れる、小さな嘆息。

 手がかりがなかったからこそ、リリアムはこうして旅を続けている。


 実際、ローザリッタもマルクスが他流試合を受けたなど聞いたことがなかった。

 家督かとくを譲って隠居した後ならばいざ知らず、現当主が易々と挑戦を受けるなどあってはお家の一大事だ。


 ローザリッタは涼しい顔をしているリリアムの心境をおもんばかる。


 レスニア王国は〈大平原〉に点在する国家群の中では小国ではあるが、それでも一つの国から、たった一人を探し出すなど雲を掴むような話だ。


 誰しもが行動に移す前に諦める難題。

 それだけに、リリアムの決意の悲壮さがひしひしと伝わってくる。


 ――母の仇を探す旅。


 そうリリアムは語っていた。

 それ以上のことは、ローザリッタは知らない。聞いてもいない。


 そこまでの深い場所に踏み込むには、まだまだ時間が足りなかった。


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