第10話 無念無想

 話を仕切り直すように、リリアムが茶を口に含んだ。


「あなたが旅に出たい理由はわかった。なるほど、確かに剣術遣いにとって、実戦は一つの転機ではあるわね。命賭けの戦いから得るものは大きい。私も実際に斬り合いを経験してから格段に成長したと思うし」

「やっぱり、そうですか」


 相槌を打ちながら、ローザリッタは話題が変わったことに安堵あんどする。


「やっぱり、実戦は稽古通りにはいかないものですか?」

「一概には言えないわね。稽古を積んでいたから生き残れたのは確かだけど、完全に実戦を想定した稽古があるかといえばそうでもないし。確かなのは、強くなるにはその繰り返しが必要ってことかな」

「繰り返し……ですか?」


 ローザリッタのおうむ返しに、リリアムは軽く首肯した。


「実戦を生き残るために稽古を積み、実戦の経験を稽古に活かす。そして、稽古で得た新たな知見を実戦で検証する。その繰り返し。こういうの、現任訓練っていうのかしらね。実戦を経験した後では、同じ稽古に取り組んでも、解釈が以前とまったく違ったものになる。どうしてこの型に、この動きが組み込まれているのか。どういう時に使うことを想定しているのか。その理由を実感できるようになるからね」


 なるほど、とローザリッタは頷く。

 稽古は実戦のためのものであり、実戦は稽古のためのもの。いくらローザリッタが皆伝の位にあろうと、片方が欠けていては型の分解もまだまだ不十分と言える。


 その話を聞いただけでも、まだ自分が成長できる余地はあると確信した。

 やはり、己がこれ以上強くなるためには真剣勝負の経験が必要なのだ。


 だが――


「武者修行を、お父様が許して下さればなぁ……」


 愚痴が、溜め息と一緒に零れ出た。


「なに? 止められているの?」

「はい……」

「まあ、当然よね。女剣士の末路は酷いものよ。戦いで命を落とすだけならまだマシで、下手に生き残ってしまえば死ぬよりも悲惨な目に遭う。娘に危険なことをさせたくないって考えるのは、親として当たり前のことなんじゃないかしら」

「それは……そうなんですけど」


 まったくの正論だ。

 加えて、ローザリッタには伯爵家の跡継ぎでもある。

 彼女の命はもはや自分だけのものではなく、その生死はこの土地で暮らす人々の生活にも影響を及ぼす。


 わかっている。理解している。

 だが、それでも諦めきれないのがローザリッタだった。


「ただ、石灯篭を斬れば、わたしの旅を許してくださると約束してくださいました」

「……石灯篭を?」


 リリアムは思案顔で湯飲みを置いた。


「それは、難題ね」


 それは適当な相槌ではなかった。

 リリアムもまた剣士であるからこそ、ローザリッタに与えられた試練の難しさが理解できるのだろう。


「……難題です。実際に試してみましたが、まったく斬れなくて。何か、良い知恵はないでしょうか?」


 ふむ、とリリアムは腕を組んで瞳を閉じた。

 沈黙することしばし。


「……助言、というほどのものではないけど。無念無想むねんむそうって知っている?」


 リリアムの問いかけに、ローザリッタは堂々と答えた。


「それはもちろん。一切の雑念を捨て、心を無にすることですよね。心を無にすれば四戒によって刀線が迷うことも、刃筋が揺らぐこともない。無念無想は剣術遣いが理想とする心理状態です」


 人間の心と体は切って切り離せない。

 誰しも一度くらい、心の動揺によって体が動かなくなったことがあるだろうが、命の遣り取りをする真剣勝負の場では、ことさら心の状態が勝敗を左右するものだ。


 中でも、驚、懼、疑、惑――つまり、驚き、恐れ、疑い、惑う――の四つは、戦場において最も起こしてはならない感情だと考えられてきた。


 これを剣術世界では四戒という。


 無念無想とは、その四戒さえ寄せつけない境地だと言えるだろう。


「模範的な解答ね。でも、私の解釈は違う」

「……と言いますと?」

「人間は意識的に出す力より、無意識的に出す力の方が大きい。ほら、火事場の馬鹿力ってあるでしょ? 危機にひんして人間は、普段は持ち上げられないような重たい物であっても、あっさり持ち上げることができる。けれど、いくら命の危機だからって人間の筋力は劇的に増えたりしない。増えたように見えても、それはその人がなのよ」


 人体の筋肉は約五百本の筋繊維で構成されており、そのうち、自分の意思で動かせる筋肉――随意筋ずいいきんは全体の約五割だと言われている。


 では、人間はこの五割の随意筋すべてを、余すことなく全て使うことができているかと言えば、実はそうではない。


 随意最大収縮――つまり、これ以上ないほどに力を発揮した状態でも、遊んでいる部分が存在しているという。


 つまり、人体はに設計されているのだ。


 しかし、命の危機などの有事に際しては、普段は使っていない部分を使ってでも、その状態を回避しようとする。理性ではなく、本能がそうしろと命じるのだ。これが火事場の馬鹿力の正体である。


「意識がある状態では、肉体の限界の性能しか使えない。けれど、無意識であれば限界使うことができる。要するに、無念無想っていうのはなのよ。もし、火事場の馬鹿力を自由自在に引き出すことができれば、ひょっとしたら石灯篭だって斬れるかもしれないわね」

「――なるほど」


 ローザリッタは神妙な顔つきで頷いた。


「そんな無念無想の解釈を聞いたのは初めてです。でも、どうやって?」


 言葉の意味は理解できるが、問題はその方法だ。

 立とうと思って立てるような地点であれば、理想の境地などと言われるはずもない。リリアムは火事場の馬鹿力に例えたが、まさか実際に館に火を放てというつもりだろうか。


「そう簡単に無念無想に入れるなら苦労はしないわよね。だから、そういった一切合切いっさいがっさいくらい修練に没頭しなさいってことじゃないかしら。結局、剣術なんて地道な鍛錬の積み重ねが一番なんだから」

「……基本に帰れってことですね」

「そういうこと」


 ローザリッタは胸が軽くなるのを感じた。

 明確な解決方法とは言い難い。けれど、何をすべきかわからなかったさっきまでと比べれば、ずいぶん気持ちが楽になった。


 ああ、その通りだ。うじうじ悩むなど、それこそ雑念。無念無想には程遠い。

 奥義は全て基礎に含まれる。であれば、灯篭斬りの攻略も基礎に含まれるはず。

 ならば、やるべきは一つだ。


「私から言えるのはこれくらいね」

「ありがとうございます。おかげさまで活路が見えました!」

「そ。話した甲斐があったわ。……じゃあ、私はそろそろ行くわね。ごちそうさま」


 自分の役目は終わったと感じたのか、リリアムはあっさり席を立つ。

 去りゆく背中を、ローザリッタが呼び止めた。


「あ、あの! ここには何日くらい滞在されるんですか?」

「……特に決めてはいないわ。手掛かりが掴めないようなら、早々に別の街へ発つかもしれないし」

「そうですか……」


 また会えないか――喉まで出かかった言葉を、ローザリッタは懸命に押し留めた。

 リリアムにはリリアムの事情がある。

 出会ったばかりの人間が、軽はずみに踏み込めない事情が。


 名残惜しそうな顔つきのローザリッタに、リリアムは肩越しに笑みを送った。


「あなたが旅に出ることができたなら、どこかで再会することもあるでしょう。その時は、また一緒に食事でもしましょうか。試しの成功を祈っているわ」



 ◆◇◆◇◆◇



「――お見事でございます」


 夕暮れの道場で師範代はうめいた。

 その右手首には木刀の切っ先が、触れるか触れないかの距離でぴたりと静止している。よもや今日一日で、同じ打ち込みを二度も受けるとは思いもよらなかった。


「そなたも腕を上げたな」


 構えを解きながら、道着姿のマルクスは朗らかに笑った。

 マルクスは領主であると同時にエリム古流ベルイマン派の宗主でもあり、時折、直に木刀を執って高弟たちに指導を行っている。

〈王国最強〉の剣士から手ほどきを受けるのは、古流一門に連なる者にとってはこの上ない名誉であった。


 しかし、師範代の顔はどこか暗い。

 それは、今しがた受けた〈切り落とし〉に思うところがあるからだ。


「……宗主。お嬢様の腕は着実にあなたに迫りつつあります」

「そなたのところにも来ておったか」

「はい。なんでも皆伝の試しを言い渡されたとか」

「うむ。年頃の娘の難しいところよな。物事の道理をわかっておらん。……よもや、灯篭斬りの核心を話しておらぬだろうな?」

おきてです故。ですが……」

「わかっておる。賭けと呼ぶには、儂に有利過ぎると言うのであろう?」


 師範代の非難がましい視線を受け、マルクスは肩をすくめた。

 なにがどう有利なのか。

 灯篭斬りの真実を知らぬ者には、推し量ることはできない言い回し。


「惜しゅうございます。お嬢様の天賦は本物。ゆくゆくは、何者にも及ばぬ剣の高みへ到達するものと確信しておるのですが……」

「儂もそれは疑っておらぬよ。だがな、いくら剣の才に恵まれようと……それでもあやつは貴人なのだ。伯爵家の跡継ぎなのだ。家が傾けば、領民の生活も脅かされよう。どうしようもないのだ」


 娘の才能を認めながらも、マルクスは為政者としての立場を貫く姿勢だ。

 無論、大局的に見れば正しい決断には違いないだろう。


「……もしも」

「ん?」

「もしも、何とします?」

「何を馬鹿な」


 マルクスは考えるのも馬鹿々々ばかばかしいという表情を見せる。


「もしもの話ですよ。お嬢様は不思議な御方おかたです。もしかしたら、奇跡を起こせるのではないかと……つい夢想してしまいます」

「有り得んさ。だが――」


 マルクスはローザリッタが失敗すると確信している。仮定の話など意味はない。意味はないが――師範代の気持ちもわからないわけではなかった。


「その時は、天命だと受け入れるしかあるまいよ」


 そこで二人は真顔になり、口をつぐんだ。

 道場に向かって覚えのある気配が急速に近づいてくる。


「お父様、こちらでしたか!」


 戸が勢いよく開かれ、ローザリッタが転がり込んできた。


「……息せき切らしてどうした?」


 マルクスは怪訝そうに眉根を寄せた。

 てっきり、試しの攻略が思うようにいかず、落ち込んでいるかと思ったが――ローザリッタの表情はどういうわけか晴れやかだ。


 彼女の背中には大きな風呂敷包み。

 まるで夜逃げでもしようと言わんばかりの格好だ。


 マルクスの脳裏に嫌な予感が駆け巡る。


「ローザ。お前、何を始めるつもりだ?」


 にっこりと笑みを浮かべ、ローザリッタは宣言した。


「今夜から試練最終日まで、森籠もりごもりいたします!」


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