第41話 縁は巡る

「見事なものですね」


 朝露を受けてしっとりと咲き誇る桜の花を見上げながら、ローザリッタは感嘆の笑みを浮かべた。小鳥が囀る明け方の青白い空に、薄紅の花弁が際立っている。


 逗留とうりゅうを開始したばかりの時はまだつぼみだった中庭の古桜も、七日目を迎える頃にはすっかり開花の時期を迎えていた。こけした樹皮からは想像できないほどに瑞々しい花弁が、本格的な春の到来を声高に告げているようだ。


「女将さんの言ったとおり、出立までに見ることが叶いました」


 白い息を吐きながら、ローザリッタは隣に立つ老女将に微笑みかける。その出で立ちは完全武装。防寒のために羽織った外套がいとうの下には胸甲鎧を纏い、腕には籠手こて、足にはすね当てで固め、腰には太刀の大小を差している。


 それが意味するところは、旅立ちに他ならない。

 リリアムは既に本調子に戻っている。必要な物品の補充も終え、昨夜のうちに旅を再開する準備は完了。あとはここから出発するのみだ。


 ――だったのだが、その前に少しだけ時間を取って、ローザリッタは中庭に足を運ぶことにした。自分と所縁ゆかりのある桜を、旅立つ前にこの目に焼き付けておこうと思ったからだ。


「本当に今から出立されるのですか? せめて朝餉あさげまで召し上がっていかれればよろしいのに」


 老女将は名残惜しそうに口にする。まだ夜が明けたばかりで、まだまだ寝屋からは宿泊客のいびきが聞こえている。旅籠の従業員は動き出しているが、それでも朝餉の用意はもうしばらくかかるだろう。


 ローザリッタは苦笑して答えた。


「お許しください。仕方ないとはこととはいえ、長逗留ながとうりゅうで旅程の消化が大幅に遅れています。その分を取り返さなくてはなりません」


 静養している間にリリアムが修正した旅程案では、道中の休息を省いて最短距離で〈アコース〉まで駆け抜ける方針だ。遅れを取り戻す意味が大きいが、金銭的な事情でこれ以上、どこかに泊まることを避けたいという理由もある。三人の移動速度であれば可能だが、それでも早朝に出発しなければならなかった。朝餉を食べたい思いはやまやまだったが、どうしても時間が惜しい。


「でしたら、出立前に厨房へ寄ってください。弁当を用意させておりますので、道中お召し上がりください」

「数々のご高配、感謝いたします。しかし、女将さんはどうしてそこまでわたしたちに親身になってくれるんです?」


 ローザリッタはかねてからの疑問を口にした。最初にあった時から、老女将の振る舞いは旅籠の従業員としての配慮以上のものを感じる。自分が貴族だからなのか、かつてここを利用した客の血縁だからなのか。


「……嬉しいのですよ」


 はにかみながら老女将は答えた。


「旅とは危険が伴うものです。どれだけ街道が整備されようと、森を拓いて神獣の牙を遠ざけようと、真に安全な旅路など存在しない。旅立ったきりで、二度と故郷に帰って来られない者は大勢います。いってらっしゃいという言葉と、おかえりなさいという言葉は、必ずしも同じ数ではないのです」


 ローザリッタは無言で顎を引いた。彼女もまた好むと好まざるとに関わらず、郷里を発って一月ひとつきにも満たない間に数々の危険を直接体感している。剣術に熟達した彼女たちであっても平坦な道程とは言い難く、ましてや戦う術を持たない人々であればなおのこと。旅立った人間の数と帰ってきた人間の数は釣り合わないのが日常で、老女将の言葉は旅行者に待ち受ける厳しい現実を物語っていた。


 だからこそ――


「そんな厳しい現実の中、かつて私がここで見送った御方の血を引く者が、この町を訪れてくれた。出迎え、見送り、また出迎え、そしてまた見送る。ただそれだけのことが、私にはとても嬉しいのです」


 ――行って、帰ってくる。ただそれだけのことがとても尊いのだと、喜ばしいのだと、たるんだまぶたの奥の優しい眼差しが告げていた。


「ですから、ローザリッタ様。あなたも生きてお戻りなさい。無事に武者修行を終え、一段と成長されたお姿を、またこの婆やに見せてあげてください」


 そうか、とローザリッタは納得した。

 老女将とのやり取りに不思議な安心感を覚えるのは、彼女を祖母のように感じていたからだろう。ローザリッタの祖母に当たる人物は、自分が生まれる前に他界していると聞く。物心ついた時から、親より上の親族との関わりがなかった。


 だからもし、自分に祖母がいるとしたら、この老女将のような人だったのかもしれない、とローザリッタは思った。


「……はい。必ず、この桜を見に来ます。どうかそれまでご壮健で」

「かしこまりました」


 ローザリッタは真摯に頷くと老女将はにこりと微笑み、恭しく頭を下げた。


「――ご武運を。またのご利用をお待ちしております」

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