第35話 友として

 ぽたり、と赤色の滴が切っ先から垂れる。


 ローザリッタは着地の姿勢のまま硬直していた。


 初陣で新兵のような無様を晒さなかったローザリッタではあるが、だからといって何も感じないわけではない。


 あの時は、自分の手で誰かを守ることができたという達成感が麻酔のように働いていただけで、人間の頭蓋を砕いた感触は決して心地よいものではなかった。吐きこそしないが、何度も味合わずに済むなら、それに越したことはない。


 だが、彼女が固まっている理由は、改めて実感した人を斬る感触に嫌悪したからではないかった。


 むしろ、その反対。

 強敵と刃を交えた昂ぶりが、命を賭けた遣り取りが、討ち破った優越感が全身を甘く満たしている。まるで酒に酔ったように。


 ――


 ローザリッタの下腹部が熱を帯びている。服の中に窮屈に押し込められた胸の先端が痺れて、硬くなっているのも自覚できた。その方面に疎い彼女でも理解できる。これは


 生き物は勝つことに快感を覚える。

 野生の世界において、敗北は死に直結するからだ。戦いは嫌だ、負けても構わないなどという生温い覚悟では、過酷な生存競争から真っ先に転げ落ちてしまう。かてを、つがいを、己の生存を貪欲に勝ち取った個体だけが、未来へ血を残すことが許される。


 人間の言葉に置き換えれば、『英雄、色を好む』だろう。

 これは身分制度、家督制度にとって不可欠な世継ぎを生み出すための一夫多妻を正当化する言葉ではない。英雄的行動が取れるほどの闘争心――勝利への飢えを持っているということは、同時にそれだけ強い性衝動を抱えているものなのだ。太古の昔から連綿と受け継がれた生き物のさがである。


(そうか、これが……)


 剣術に全てを捧げるというのは、こういう感覚を求めてのことだろうか。


 二回目で、これだ。三回目はどうなる? 四回目は?

 人を斬る嫌悪感が完全に消え去るまで、あと何回かかる?


 人を斬ることに何も感じなくなれば、この何とも言えない恍惚こうこつ感だけが残るのではないか。だとすれば、時に人間が酒におぼれるように、自身が人を斬る心地に依存するようにならないとは限らない。


 その時、ローザリッタの脳裏に、あの日の母の姿が浮かんだ。


(違う……わたしは、何か守るために剣を振るうんだ。決して、命を奪うことに楽しみを見出すためじゃない……! 今だって、あの女性の子供の仇を討つために戦った……!)


 真剣勝負を求めたのは、自分の限界を打ち破るのに必要だったからだ。

 その経験を更なる強さに昇華して、誰かを守るために活かすために。それが彼女の信念だ。


(これから幾度斬り合いをすることになろうと、わたしの剣は守るための剣だ。努々ゆめゆめ、それを忘れるな――)


 黙してローザリッタは念じ続けた。唇の隙間から漏れそうになる、熱い吐息を懸命に押し込みながら。


「――お嬢!」


 そのまま動かないローザリッタを不審に思ったのか、ヴィオラが血相を変えて駆け寄った。そのまま全身をぺたぺたとまさぐり出す。


「どっか怪我とかしてないか!? 痛いところはあるか!?」


「……大丈夫ですよ。まったく心配性ですね、ヴィオラは」


 緊張を解いてローザリッタが微笑むと、ヴィオラは安堵の表情を浮かべる。

 ローザリッタの腕前を信じていないわけではなかったが、それでも真剣での斬り合いは何が起こるかわからない。ヴィオラの心配ももっともなことだ。


 事実、紙一重の戦いであった。

 堕剣士の技は、そのどれもが一撃必殺の鋭さを秘めていた。彼の独特の運剣は相対する者の拍子を狂わせ、その隙に蛇のように忍び込んでくる。


 正統派で慣らした剣士ほど戸惑いが大きくなる恐るべき魔技だが、残念なことにローザリッタとは相性が悪かった。狂わされるほど実戦を経験していない上に、彼女の修めるエリム古流そのものが、そもそも正統派とは言い難い。堕剣士が待ち望んだ名誉の剣士こそが、彼の天敵だったとは皮肉の極みだろう。


 ――リリアムだったらどう戦っただろうか。

 興味が湧いたローザリッタは少し離れた場所で待つ白銀の少女へ視線を向ける。


 そこで思わず、息を呑んだ。

 リリアムは片膝をついて、頭を垂れていたからだ。


「リリアム……?」


「――お見事でございます」


 顔を伏せたまま、リリアムは言った。


 ベルイマン古流の遣い手というだけならば平民にも実在する。他ならぬヴィオラがそうだ。


 だが、彼女はこう名乗った。

 ミリアルデ=ローザリッタ=ベルイマン。

 それは剣の流名ではなく、このモリスト地方を治める者、その一族に与えられた姓名だ。いくら王都出身のリリアムであっても、その名乗りを聞けば、ローザリッタの正体に気づくだろう。


 すなわち、貴人。

 王権国家における身分の壁は絶対であり、庶民との格差は厳格に存在する。ヴィオラの奔放さと、それを笑って許すマルクスの寛容さが例外なのであって、本来はリリアムのような態度が普通なのだ。


たっとき御方とは露知らず。我が身の未熟を恥じ入るばかりにございます。これまでのご無礼、平にお許しください」


「――やめてください」


 ローザリッタの言葉は、どこか悲鳴のようにも感じられた。


「リリアムにそういう態度を取られるのは傷つきます……! わたしはあなたとは対等でいたい。友達でいたいんです……!」


 ローザリッタが正体を明かさなかった一番の理由。

 それは、なりたくなかったからだ。


 彼女の正体を知れば、皆同様の態度を取るだろう。だからこそ、ローザリッタは自分の立場に苦しめられてきた。自分は貴人なのだと、伯爵家の跡取りなのだと、やりたいことを禁じられて、この十六年間を過ごしてきた。己に流れる血を、いっそ恨んでいたとさえ言っていい。


 そんなローザリッタが、初めて友人と呼べるような人間と出会えた。

 同い年でありながら類稀なる剣術を遣い、世界を巡り歩く強い女性。自分もそうりたいという憧憬どうけいの具現。


 そんな女性が頭を垂れている。自分が貴人だからという理由だけで。

 それはとても我慢できることではなかった。


「だから、どうか……いつものリリアムでいてください。わたしが失礼なこと言ったら叩いてくれるリリアムでいてください! 憧れている人にそんな風にされるは嫌なんです!」


 ローザリッタらしからぬ激情の吐露に、周囲がしんと静まった。


 暫しの沈黙の後、小さな鼻息が聞こえる。

 ゆっくりと立ち上がったリリアムは、上目遣いにローザリッタを見た。


「……あとで不敬罪に問わないでよね」


「――! もちろんですよ!」


 いつもの言葉遣いに、ローザリッタは救われたような顔になった。


「でも、おかげでいろいろ合点がいったわ。あなたがこれまでシルネオの街を離れられなかった理由とか、ヴィオラさんみたいな達人が従者についている理由とか。そりゃそうよね。伯爵家の跡継ぎが武者修行だなんて、私が家臣だったら全力で止めるわ」


 呆れたようにリリアムは言った。ローザリッタは苦笑する。まさに全力で止められていたのだから。


「……そんなに強くなりたかったの?」


「はい」


「……そ。私と一緒ね」


「え?」


「あなたにも、譲れない何かがあるんでしょ?」


 ローザリッタの旅も、リリアムの旅も同じだ。

 大勢の家臣から守られるべき貴人でありながら、それでも己の手で守ることに固執する少女。


 人を殺すことに拒絶感を覚える優しい心を持ちながら、それでも仇討ちを諦めない少女。


 互いに譲れぬ『何か』に殉じて旅をしている二人。似た者同士と言えば、確かにそうだった。


「……いいわよ」


「え?」


「と、友達よ。なってあげても、その、いいわよ……」


 リリアムは照れたようにそっぽを向いた。

 何とも言えない多幸感がローザリッタの胸に満ちる。


「はい……よろしくお願いします!」


 屈託なく微笑むローザリッタを見て、リリアムの顔が真っ赤になった。

 ここに至って、リリアムはヴィオラの気持ちに共感する。もともと綺麗な顔立ちをしているが、同性でも胸が高鳴るほどローザリッタの無邪気な笑顔は眩しい。一輪の薔薇のように艶やかで、気高く、それでいて無垢。愛でたくなる、大切にしたくなると自然に思える何かがあった。


 そんな感慨も束の間、ローザリッタは真顔に戻る。


「……リリアム。友人として、最初のお願いがあります」


「なに?」


「彼の埋葬まいそうを手伝ってください」


 ローザリッタは少し離れたところに伏す、堕剣士の遺体を指した。


「リリアムが剣術の深みに呑まれた人間を嫌っているのは知っています。彼は、まさに剣の名誉に取りかれ、それに己の全てを捧げて人の道を踏み外した典型……ですが、わたしは彼と戦い、多くのことを学ばせてもらいました。悪党には違いありませんが、それでも――」


「見損なわないでほしいわね」


 リリアムは不機嫌そうな顔つきで腕を組んだ。


「私は確かに仇討ちに命を賭けているし、仇と同類のその男を見ると反吐が出るわ。けれど、それでも死屍ししむち打つような真似をしとするほど、私は人の道からは外れていないつもりよ」


「よかった。それでは――」


「でもね」


 早とちりしそうになったローザリッタを、リリアムは遮る。


「この男に息子さんを殺された、あの女性がどうかはわからないわよ? 死屍に鞭打って、心が救われるかもしれないわ」


 ローザリッタは昨晩の女性の言葉を思い出す。


 ――羨ましいことです。私にあなたさまほどの力があれば、みすみす息子を失わずに済んだのかもしれませんのに……。


「……あの方は私に似ている。子供の命を奪った野盗を恨むのではなく、非力な我が身を真っ先に嘆いた。だから、わかります。あの方はきっとそんなことは望みません」


 ――鞭打つとすれば、それはきっと己に対して。

 弱かった自分。守れなかった自分を責めるだろう。きっと、自分と同じように。


「……そ。ならいいわ」


 その言葉に、リリアムは静かに目を伏せた。


 昨日降った雨のおかげで、地面はまだ柔らかいままだった。三人は泥にまみれながら堕剣士のむくろを丁寧に埋葬する。


「しかし、また汚れちまったな。もう一回、村長のところで湯殿ゆどの借りてから出立するかぁ」


 ヴィオラが汗をぬぐいながら言った。その拍子に顔に泥がついて、ローザリッタは思わず吹き出してしまう。


「……なんだよ、笑われるほどあたしの顔は酷くないぞ」


「ごめんなさい。もちろん、ヴィオラはちゃんと美人ですよ。そうですね、お風呂に入るのは賛成です。……下着も替えたいですし」


「ん? 漏らしたのか?」


「し、失礼な。粗相そそうなんかしていませんっ!」


 頬を赤らめ、ローザリッタが憤慨ふんがいする。


「恥ずかしがることないでしょ。命の遣り取りで恐怖を感じない方がおかしいわ」


「そうだぞ。ちゃんと洗ってやるから心配すんな」


「だから漏らしてませんって――あ、そうだ、今度は三人で入りましょう!」


 言い置いて、名案とばかりにローザリッタは手を叩いた。


「お、いい考えだ。昨日はあたしだけ仲間外れだったからな」


「それはヴィオラが洗濯を優先したからでしょ」


「侍女としての矜持きょうじが許さんかったんだ」


 和気藹々わきあいあいと語り合う主従に、リリアムは冷たい視線を向ける。


「絶対に嫌よ」


「せっかく友人になれたんですから、もっと交流を深めましょうよぉ」


 甘えるようにすり寄ってくるローザリッタに、リリアムは半眼になりながら、この二日間で何度も口にしたであろうそれを、今日も口にする。


 今後も言い続けるのだろうな、と静かに確信して。


「嫌ったら、嫌」




/無名の堕剣、了。

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