第20話 野性の猛威

「……見事に虎の尾を踏んだな」


 気分の落ち込みに比例して足が遅くなったローザリッタに、後ろを歩いていたヴィオラが追い付いた。


「……はい。でも、わたしだって好きで胸が大きくなったわけじゃないのに……」


 ローザリッタの肉体は貴顕きけんの美。


 美しくれかしと望まれ、品種改良じみた血統操作の積み重ねによって発現した呪いのようなものだ。貴人が美しいのは、ある意味で当然なのである。


 しかも、ベルイマン伯爵家は建国史に名が刻まれるほどの古い来歴を持つ。


 故に、その呪いは王族に匹敵するほど強固で、本人の意思とは無関係にに成長してしまう。


「お嬢の気持ちも理解できなくはないが、世の中の大多数の女にとって、それは贅沢な悩みに聞こえるんだよ。……しょうがねえ、ここはあたしが励ましてくるか」


「ヴィオラだってそれなりにあるじゃないですか。逆効果では?」


「あの手合いは、自分より大きい女を全員を目の仇にしているわけじゃない。自分が努力しても手に入れられなかったのに、なんの努力もせずに持っている女がしゃくに障るだけだよ」


「ヴィオラも努力したんですか? というか、わざわざ努力するんですか?」


「……そういうところだぞ、お嬢」


 顔をしかめたヴィオラが足を速めた。

 先行するリリアムに追いつくと、何やら話しかける。次第にリリアムの表情が和らいでいき、徐々に和気藹々わきあいあいとした雰囲気になっていく。


「むぅ……」


 ローザリッタは仲間外れにされたようで、ちょっとだけ面白くなかった。


 むしろ、たかだか胸の脂肪の一つや二つで、どうしてこんな扱いをされなくてはならないのか。物心ついてから剣術ばかりやってきた彼女には、そのあたりの機微がわからない。


 だが、心理的な距離ができたおかげで、彼女の視野は少しだけ広くなった。


 街道に沿って生い茂る藪の向こうから、小さな違和感を感じる。


 そこから放たれる、ちりちりと産毛が焦げるような不快感。つい先日、似たような感触を味わったばかりだ。

 

「――ヴィオラ!」


 違和感の正体に思い至るや否や、ローザリッタは駆け出した。


 次の瞬間、茂みが大きく波打つ。

 枝葉を撒き散らし、黒い影が矢のような速さで飛び出した。


 前を歩く二人は反応が遅れた。

  特に、茂みに近い位置を歩いていたヴィオラは致命的だった。白い牙が無防備な褐色の肌へ伸びる。


 その直前――


「くっ……!」


 すかさず割って入ったローザリッタの籠手が、それを阻んだ。


「ローザ!」


「お嬢!」


 リリアムとヴィオラが同時に声を上げる。


「大丈夫です! ――このぉ!」


 ローザリッタは籠手に食らいついたままの影をそのまま地面に打ちつけた。


 きゃいん、と弱々しい悲鳴が響く。


「……犬か!」


 飛び出した影の正体は野犬やけんであった。


 奇襲に失敗し、手痛い反撃を受けた野犬は籠手から牙を離すと、風のような速さで三人から距離を取る。


 ――辺境の旅において、一番に気をつけなければならないことは何か。旅人全員が口を揃えて言うのが、


 犬は最優の狩人である。


 最強の熊、最速の蜂と比べれば、その脅威度は大きく落ちる。

 だが、それと危険度は別だ。

 彼らを最優たらしめている要素は単体の強さではなく、集団での狩猟能力にある。訓練した騎士にも劣らぬ高度な連携で、自分よりも大きな獣を仕留める狡猾こうかつさこそが彼ら最大の武器なのだ。


 つまり、


「う……」


 野犬の仲間たちが次々と茂みの向こうから姿を現したのを見て、ローザリッタがうめく。


 数は五匹。

 そのどれもが痩せ細っており、ぎらぎらと目を敵意を宿らせている。


 いきなり飛び掛かってくる様子はなかった。

 単騎で襲いかかっても勝ち目が薄いことは先鋒の失敗から学んだのだろう。三人を囲い込むように、ゆっくりとにじり寄ってくる。足並みが揃ったところで、一気に飛びかかろうという腹か。


 ローザリッタの表情がにわかに強ばりをみせた。


 彼女には飢えた獣に関する辛い記憶がある。


 十年前。目の前で彼女の母親を食い殺した野熊も、冬を乗り越えたばかりの個体だった。空腹の獣の獰猛さ、執念深さを彼女は身をもって知っている。


(あの時のわたしは無力だった。でも、今なら――)


 神妙な顔つきで、ローザリッタが太刀の柄に手をかけた。


 エリム古流ベルイマン派は元来が〈神〉――大いなる獣と戦うために編み出された剣術だ。当然、四足獣と戦う術も技法に含まれている。熊とは言わず、犬を相手取ることは十分に可能だった。


「……戦おうなんて思っちゃだめよ」


 ローザリッタとヴィオラを制しながら、静かにリリアムが言った。


「剣術なんて言うのは、あくまで人間が人間を倒すために編み出したもの。動物相手に効果があるだなんて考えない方が良いわよ」


「心配無用です。わたしたちの剣は本来――」


「おい、お嬢」


 ヴィオラからたしなめられ、ローザリッタは口を閉じる。……危うく、流派の真髄しんずいを語るところだった。


「いいから、ここは任せなさい。――二人とも、息、止めて」


 リリアムが懐から何かを取り出し、投擲とうてき。少し先の地面に素早く叩きつけた。


 ばり、という破裂音がしたかと思うと褐色の粉塵が巻き起こり、それがゆっくりと周囲に広がっていく。


 野犬たちは何事かと鼻をひくつかせると、その正体に気づいたのか、悲鳴を上げて撤退していった。


よ」


 外套の裾で口元を追いながら、リリアムが言った。


 犬散らしとは、卵の殻の中に、香辛料や悪臭を放つ蟲を粉末にしたものを詰めたものである。野生の脅威に対しては剣や槍といった直接的な武装よりも、こういった安価な道具がものを言う場合が多い。


 一滴の血も流さない、見事な対応。


 しかし、ローザリッタはやや不満げな表情をしていた。幼い日の恐怖体験を乗り越える絶好の機会だと考えていたからだ。飢えた獣を自分の手で撃退できれば、少しは自信に繋がるかもしれなかったのに――


「ひょっとしたら倒すことだってできたかもしれないけどね」


 ローザリッタの心境を見透かしたように、リリアムが言う。


「あいつらを斬ってしまったら、その血の匂いに釣られて、もっと大きな獣が出てくるかもしれないわ。それが私たち三人で対処できる保証はない。逃げてくれるなら、それに越したことはないでしょ。避けられる危険は避けた方が無難だわ」


「……それは、そうですね」


 ローザリッタは太刀の柄から手を離した。


 自分の目的はあくまで武者修行であり、他流との剣術勝負である。万が一、怪我をしてしまえば、それが果たすことはできなくなってしまう。


 ……経験不足。

 大局を見据えることができなかったローザリッタに、その言葉が重く背中に圧し掛かった。


「――お嬢、見せてみろ!」


 無事に撃退できて、ほっとしたのも束の間、血相を変えてヴィオラがローザリッタの腕を掴んだ。


 ヴィオラをかばって野犬に噛みつかれた籠手は、表面に薄く傷が入っているものの、貫通はしていないようだった。


「危なかったわね。野犬の牙は病を持つというわ。傷は浅くても命取りになる」


「……なるほど。確かに、これは具足ぐそくがなければ防げませんでした。お父様の言い分は正しかったわけですね」


「つーか、この馬鹿! 主人が従者を庇ってんじゃねえよ! 逆だろ、普通!」


 ヴィオラが怒りを露わにする。

 従者を庇って主人が危険な目に遭うなど、従者の存在意義を否定するにも等しい。


 ローザリッタはばつの悪そうな顔をした。


「だって、あのままじゃ噛まれていましたから……」


「そりゃそうだけどさ……!」


「どっちの気持ちもわかるけど、誰も怪我せずに済んだんから、とりあえずは善しとしておきなさい。急いでここから離れるわよ。飢えた野犬は執念深いわ。また襲ってくるかも――」


 その時、ぽつり、とローザリッタの鼻先に冷たいものが当たった。


「雨……」


 示し合わせたように三人が空を見上げた。

 静かに、だが、確実に降り注ぐ水の粒の数が増えていく。


 まずいわね、とリリアムが眉をひそめる。


 雨天では犬散らしは効果を減ずる。

 湿度が高いと粉塵が広がりにくい上に、せっかく撒いた臭いも流されてしまうからだ。また襲撃を受けたら、今度こそ実力で排除しなければならないが、次も無傷で済む保証はない。


 リリアムは地図を広げて、急いで視線を這わせる。


「……この近くに村があるわ。街道からは外れてしまうけど、そこでやり過ごさせてもらいましょう」


「わかりました」


「しょうがねえな」


 三人はそれぞれ頷くと、街道を反れて足早に横道に飛び込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る