第13話 灯籠斬り(後)

 十年前のあの日、ローザリッタは深い森の中にいた。


 雪が溶け、瑞々しい若葉が顔を出す時期になっても、日の当たらない森の空気は冬が留まっているかのように冷え切っている。


 染み入る寒さに肩を震わせながら、ローザリッタはあちこちに伸びた樹根に足を取られないように気を配りながら、よたよたと力なく歩く。


 ……独りきりで。


 数日前のことだ。

 王都で開催される天覧てんらん試合に出場するよう勅命があり、しばらくの間、マルクスは屋敷を離れることとなった。


 教育係の侍女は、これはいい機会とばかりに、自分の身は自分で守れるようになることの大切さをローザリッタに説いた。


 いつでもお館様がお嬢様を守ってくれるわけではない。

 こういう日に備えて、身を守る術を覚える必要があるのです、と。


 それでも、ローザリッタは首を縦に振らない。

 痛いのはイヤ、怖いのはイヤだと、首を振るばかり。


 幼子の駄々に侍女がほとほと困り果てていると――


『いい加減にしなさい!』


 その様子を見かねた母がローザリッタを厳しく叱責しっせきした。


『何事にも向き不向きはあるでしょう。あの人の血を引いているからと言って、戦いに向いているとは限りません。ですが、今のあなたはそれ以前です。やりもしないで駄々をこねて逃げてばかり。挑むことさえしない意気地なしは、私とあの人の子ではありません!』


 幼いローザリッタに正論を受け止める知性はまだない。

 ただ、いつもは笑顔を絶やさない穏やかな母に鋭くとがめられたことは、理屈を抜きにした衝撃だった。心の器から感情が溢れ出し、どうしようもなくなった彼女はその場から走り去ってしまう。


 ――皮肉なことに。

 優れた血を受け継いだローザリッタの足は、六歳の子供とは思えないほど素早く。追いかけた侍女たちに捕まる前に、修繕中の塀の穴を潜り抜けて裏手の森へと逃げ込んでしまった。


 家人たちが皆、血相を変えたのは言うまでもない。


 古来より、森は魔境の一端にして神域しんいき

 人を喰らうような獣。音もなく忍び寄り毒牙を伸ばす蟲。様々な方法で胃袋にへと誘惑する肉食植物が生息する、弱肉強食の掟が支配する原初の世界。何の準備もせずに踏み入ろうとするのは自殺行為に等しい。


 そんなこと、年端のいかない子供でも理解できることだ。


 だが、安全な屋敷で安穏と庇護ひごされ続けてきたローザリッタに、そんな危機感はない。


 ただ嫌なことから逃げ隠れするにはちょうどいい、くらいの認識で軽はずみに飛び込んだだけに過ぎなかった。


 その、愚かしいまでの短慮さが、彼女の運命を決定づけることになる。


『あ……』


 間抜けな声が、白く息とともに漏れる。

 すっかり葉を失った樫の木の向こう側に、黒い影があった。


 野熊のぐまである。


 生まれて初めて目の当たりにした巨大な生き物にローザリッタは硬直する。いかに常識を知らない貴族のお嬢様であっても、アレが自分の命を脅かす存在であるということは本能で理解できた。


 のしのしと巨体をゆすりながら、野熊はローザリッタと距離を詰める。

 野熊は本来、臆病な生き物である。至近距離でばったり鉢合わせしてしまった時はいざ知らず、野熊の方が先に人間の存在を感知していれば、大抵はそちらの方が去っていくものだ。


 しかし、野熊は冬越えの空腹のために餌を探している最中であり。

 目の前で放心している無防備な幼子はご馳走以外の何物でもなかった。


 ローザリッタは恐怖のあまり一歩も動けずにいたが、むしろ、これは幸運なことだったのだろう。


 もし、彼女が背中を向けて走り出そうものなら即死していた。


 図体の大きさに騙されがちだが、野熊の瞬発力はおおかみをもしのぐ。

 人間程度の生き物が走って逃げきるのは不可能なのだ。声を上げず、木石のように立ち尽くすことが最も命を伸ばす方法なのである。


 しかし、それも数秒の猶予に過ぎない。

 ローザリッタの目前で野熊が立ち上がる。

 上体を起こした姿はさながら大岩のようだった。野太い腕が振り上がり、木漏れ日が鋭い爪を照らす。


 一秒後。

 圧倒的な暴力によって、彼女はずたずたに引き裂かれるだろう。


 その時だった。

 どん、という衝撃とともにローザリッタの体が宙に浮いた。

 誰かに突き飛ばされたのだ。


『逃げなさい!』


 そして、突き飛ばした誰かは――彼女の母親は、娘の代わりに餌食となった。


 真っ赤な血が飛び散り、木の幹に斑点はんてん模様を描く。

 母の美しい顔は熊の太く鋭い爪によって無残に引き割かれ、大部分の皮膚が剥がれ落ちていた。


 耳を塞ぎたくなるような絶叫が森の空に響く。

 激痛に悶え、膝をついた母に野熊が覆いかぶさると、容赦なく喉元に噛みついた。凶悪な牙が、ぶちり、と喉笛を噛み千切る。


 ……もう悲鳴も出なくなった。


 母は懸命に口を動かして、恐怖で動けなくなったローザリッタに何かを伝えようとしていたが、ぽっかりと穴が開いた喉からはひゅーひゅーと空気が漏れるばかり。


 ただ、血濡れの唇が、逃げて、と言っている気がした。


 それでも、ローザリッタは動けない。


 これがお伽噺とぎばなしなら、勇気を振り絞って危機を脱したり、眠っていた特殊な才能が目覚めて、敵を退けたりするのだろう。


 しかし、現実にはそんな都合のいいことは起こるはずがなく。

 ローザリッタは死の恐怖に縛られて何もできないまま、母親の命が消えるその時まで、無様に腰を抜かしていることしかできなかった。


 その時、ローザリッタはは思った。

 これは、守られていることに甘んじていた自分への罰なのだ、と。


 教育係は何度も何度も警告してくれたのに。

 わがままばかり言って。やりたくないことから逃げ出したから、ばちが当たったのだ、と。


 そして、母の肉を喰らい終わった野熊の興味が自分に移った。


 ――ごめんなさい、おかあさま。ローザもいま、そちらへいきます。


 そう、覚悟を決めた時。


 森の薄闇を切り裂いて到来する人影が現れた。

 失踪したローザリッタを追って家の者たちが、武装して駆けつけたのである。


 ――そして、


 それも当然。ベルイマンの剣士たちは〈神〉と渡り合うための古の技を継ぐ者。

 獣退治という意味では専門家だ。いかな森の主といえど、複数の奥義伝承者を相手に生き残れる道理はない。


 ほんの数分前までローザリッタにとって死の化身であった野熊は、あっという間に無残な死体へと変わり果てていた。


 ――理不尽だ、とローザリッタは思った。


 これはおかしい。

 嫌なことから逃げ出した悪い人間わたしが生き残り。

 それをいさめてくれた善い人間ははが死ぬなんて――どう考えても筋が通らない。


 自分のせいなのに。

 自分の身を守るための術を得る機会はいくらでもあった。

 環境もあったし、きっと才能だってあった。

 でも、


 この世に因果応報という法則が本当にあるのだとすれば、怠惰の報いを受けるべきはローザリッタのほうだったはず。


 ――なのに。現実はそうはならなかった。


 その理不尽に、幼いローザリッタの心は狂いそうだった。


『……許せない。わたしは、わたしを許すことができない』


 覆水は盆に返らない。失われた命は戻ることはない。

 生き残ったローザリッタに生まれた感情は、ただひたすらの自責の念。

 無力であることを善しとしていた軟弱な自分への敵意と憎悪。


 それからというもの、ローザリッタはかつての無力な自分を否定したくて、これまでとは打って変わって稽古に打ち込んだ。


 一つ、技を覚える度に安心した。

 一度、試合に勝つ度に心が安らいだ。

 それを繰り返すうちに、門人の中では誰も及ばない腕前となった。


 ――


 まだ足りない。

 強さに充分なんてない。上出来では安心できない。

 妥協だの、譲歩だの、自分可愛さの楽な道を選んだせいで、大切な人を失うなんて二度とごめんだ。


(わたしは、誰よりも強くなると決めた。だから、こんな灯籠なんかに邪魔されてなるものか――!)



 ◆◇◆◇◆◇



 ――かちり。と、どこかで歯車が噛み合う音がする。


 刹那、ローザリッタは漠然と世界を見下ろしているような感覚に襲われた。

 地上にいながら、より高い地平から俯瞰ふかんしているかのように。

 この世界を構成するありとあらゆる情報が――に至るまで怒涛どとうの如く脳内を駆け巡る。


 世界の全てを掌握するような全能感。

 この時、ローザリッタは捨て去っていた。石灯篭を斬りたいという我欲を。強くなりたいという願望を。


 すなわち――無念無想。


 見えない糸に手繰られるように、ローザリッタの体が勝手に動いた。


 日が完全に沈む。とばりが降りる。


 その直前、すべてを断ち切る神速の斬撃が閃いた。



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