第12話 灯篭斬り(前)

 そうして、瞬く間に六日が過ぎた。

 夕陽に照らされた屋敷の庭園。今日が約束の七日目の日没。――刻限だ。


 石灯篭を前にローザリッタが膝をついて時を待っている。


 連日の凄まじい鍛錬によって極度にやつれてはいるが、ローザリッタの心身は不思議な生気がみなぎっていた。


 これが無念無想の境地かどうかは定かではない。だが、彼女はかつてないほど一つの物事に集中している。


 ――やるだけのことはやった。

 ――全力を尽くした。

 ――あとは、ただ斬るのみ。


「……そろそろ、時間だぞ」


 少し離れた場所で成り行きを黙って見守っていたマルクスが声をかけた。


 すでに太陽は地平への向こうへ半分以上隠れている。

 長い睫毛が揺れ、空色の瞳が開かれた。

 傍らに置いておいた太刀を手に取って、無言でローザリッタは立ち上がる。


 抜刀。解き放たれた刀身が妖しく輝く。

 一流の研ぎ師によって磨かれた、この街一の鍛冶屋の名刀は、さながら新品のように美しい。七日前の無残な姿が嘘のようだった。


 ゆったりとした足取りで石灯篭の前に立つ。


 構えは上段――甲冑式ではない。剣尖で天を衝くかのような大上段。

 実戦ではほぼ使うことはないであろう、威力のみを追い求めた単純明快な構え。


「ふぅぅぅ」


 ローザリッタは呼吸を整え、全身の感覚を把握する。

 頭の先から指の先まで、あらゆる体組織を賦活ふかつさせる。

 何千回、何万回もの素振りを平然とこなす力を、たった一振りに集約させるために。


 息を吸い、吐く。

 吸って、吐く。

 吸って――


「破――!」


 裂帛の気合と共に最高、最善、最速の一太刀が振り下ろされる。


 地上において、これに勝る一撃がどれほどあるだろうか。

 技術の最奥。身体運用の極致。人の身で成し得る究極の斬撃だ。


 茜色の空に、硬質の轟音がこだまする。


 ――されど。石灯篭はなお健在であった。



 ◆◇◆◇



 ――最高の力と技を込めた一撃だった。


 事実、ローザリッタの太刀は石灯篭の頑強な石肌を砕いて、刀身を食い込ませることに成功している。


 だが、それだけ。両断には届いていない。石灯篭は


 ローザリッタは振り下ろした体勢で硬直していた。

 その表情はまるで能面のように感情の色がない。

 全ての色を混ぜると黒になるように、その胸裏に無数の感情が渦巻いている。


「……っ!」


 だが、それも一瞬。

 ローザリッタは歯を食いしばり、鉛のように重たい腕でもう一度大上段に構えた。

 まだ陽は沈み切っていない。猶予は残されている。


 最後の最後まで、諦める気はなかった。


「……もう良い。試しは失敗だ、ローザ」


 見るに堪えないとばかりに、マルクスが口を開いた。


 既に結果は見えている。

 ローザリッタは先刻の一撃に全身全霊を賭した。余力など微塵も残っていない。

 彼女がしようとしているのはただの悪あがきに過ぎなかった。


「まだ時間は残っています……!」

「諦めろ。剣士には潔さも必要だ」

「いいえ、諦めません!」


 悲痛な叫びをあげて、ローザリッタは太刀を振り下ろした。

 精度は雲泥の差。あえなく弾かれる。


「くっ……!」


 振り下ろす。――斬れない。

 振り下ろす。――斬れない。

 振り下ろす。――異音。


「……無様な」


 マルクスは痛ましげに唸った。


 この街一の刀鍛冶が打った名刀とは思えない、濁った音。

 ローザリッタの手に握られた太刀が――その物打ち処から先がない。


 

 いかな名刀とはいえ、太刀の構造上の脆弱さからは逃れられない。

 正しく刀線刃筋を立てていない振り方では、応力であっさりと折れてしまう。


 普段のローザリッタであればそのような雑な振り方は決してしない。

 日常的にできているはずのそれができないほど、彼女は消耗しているのだ。


 剣術は、剣の性能を十二分に発揮するためのもの。

 そして太刀の最もよく切れる部分が切っ先三寸の物打ちだ。力も技も、全てそこに集約される。。もはや致命的だった。


 力も尽きた。技も尽きた。太刀も折れ、時間も無い。

 太陽は地平線の向こうに隠れ、わずかな光輝が稜線を照らすのみ。

 あと数秒で、夜になる。


 ――間に合わない。


 ローザリッタの心に夜よりもくらい絶望がしかかっていた。


 内なる声が囁きかけてくる。

 これが自分の限界だ。やるだけのことはやった。全力も、最善も尽くした。もう諦めてもいいではないか――


「いいわけ、ない……!」


 それでも、ローザリッタは

 最後の気力を振り絞って、内なる甘言を弾き返す。


 だが、いかに意思が健在であろうと、肉体が既に限界を迎えているのは揺るぎない事実だ。


 両の眼は焦点さえ合わず、どれだけ打ち付けても傾きもしなかった石灯篭が陽炎のように揺らめいて見える。疲労の極限。もはや立つことさえままならない。


「――あ」


 小さな呟き。朦朧とする視界の中で、石灯篭が姿を変えた。

 無論、幻覚だ。

 渾身の力で打ち続けても傾きすらしない灯篭が突然変形するわけがない。


 だが、ローザリッタは確かに幻視たのだ。


 流れるような金髪と空色の瞳をした、あどけない童女を。

 大切な人を犠牲にして生き永らえた、無力で無様な子供の形を。


 ――それが、潰えかけていた精神と肉体に最後の火を灯した。

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