第一章 束の間の休息 ~鹿肉のスープ~




 静かに目を覚まし、ユーリック・ドゼーは朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 いまさらあんな昔のことを夢に見たのは、きのう祖母が焼いたタルトを食べたせいかもしれない。味覚や嗅覚が視覚以上に強く記憶と結びついているという話を、確か以前どこかで聞いたことがある。

「……ふぁ」

 ユーリックが着替えをすませて髪に櫛を通していると、二段ベッドの下の段に寝ていたコルッチョ・ルペルマイエルが、大きなあくびとともにようやく身を起こした。

「そろそろ朝食の時間だぞ」

 鏡を覗き込んだまま、振り返りもせずに声をかける。コルッチョはもそもそとパジャマを脱ぐ衣擦れの音をさせながら、

「けさの献立って何だっけ……?」

「起き抜けの第一声がそれか」

 食に関して貪欲なルームメイトに苦笑し、ユーリックはドアノブに手をかけた。

「じゃあおれは先に行くぞ」

「あ、ちょっと待ってよう!」

「悪いが急いでいるんでな」

 王立陸軍学校ゼクソールは全寮制で、男子寮と女子寮の中間に大食堂がある。寮の部屋を出て大食堂に向かったユーリックはちょうど女子寮のほうからやってきたクリオドゥーナに気づいた。

「あ! ユーくん! おはよ!」

「おはようございます、お嬢さま」

 先週とは打って変わってクリオに笑顔があるのは、憂鬱な試験期間が終わったからだろう。

「――ですが、浮かれるにはいささか早いかと。お気持ちは判りますが、まだ結果は出ておりません」

「ユーくんにあれだけつきっきりで勉強教えてもらったのに、もしこれで点数低かったら立ち直れないよ」

「そんな事態になったら立ち直れないのは私のほうです」

 クリオは座学が苦手だった。しかし、それはクリオがある種の天才だからである。異能の魔法士マージである父のもと、幼少期から特に学ばずともさまざまなものごとを覚えてきた少女にとって、強制的に机に向かって勉強しなければならない環境は、そもそも肌に合っていないのだろう。

 そのせいか、試験のための勉強となると、モチベーションは上がらないし集中力も続かない。だからユーリックは、脅しつけたりなだめたり甘やかしたり、ありとあらゆる手を使ってクリオをその気にさせ、今回の試験を乗りきった。自分の勉強を二の次にしてそこまでやって、もしこれでクリオの点数が悪かったら、本当にユーリックがむくわれない。

「……ま、今回は問題ないでしょう。試験といっても暗記でどうにでもなるようなものばかりでしたし、お嬢さまの場合、むしろ実技試験こそ大きな課題となってくるはずです。今後は少しずつ体力作りをしていかないと……」

「今はその話はナシ!」

 試験勉強の流れで肉体的トレーニングまで詰め込まれると思ったのか、クリオは慌ててユーリックの口を押さえた。

 まだそこまで混み合っていない食堂で、ユーリックとクリオは日当たりのいいテーブルに陣取った。けさのメニューは鹿肉入りのスープに焼きたてのパン、茹で卵にリンゴやイチジクといったフルーツ類が用意されている。

「何度も申し上げておりますが」

「うん」

 食事をしながら、ユーリックは小声でいった。

「――ここを首席で卒業するのはもちろんのこと、陛下に対してあれだけの啖呵を切った以上、ここに在籍している間に、お嬢さまご自身が“地龍召喚ロゲ・ドラキス”の真訣にいたる必要がございます」

「それができなきゃ馬の骨と結婚だもんね」

「その通りです。しかし、お嬢さまが肝要な部分を学び取る前に、旦那さまはお亡くなりになってしまいました。……つまり、ここから先は独力で研鑽を積まなければならないということです」

「ふんふん」

 パンをちぎってむしゃむしゃ食べながら、クリオは神妙な表情でユーリックの話を聞いている。

「旦那さまの蔵書のうち、旦那さまがお書きになったものや重要と思われるものは、国に差し押さえられる可能性を考え、すでに祖母の家に移してあります。今後はここでの勉強と平行して、旦那さまの残した書物を調べる必要があるでしょう。そのどこかに、ロゲ・ドラキスの秘密が隠されているかもしれませんし」

「えーと……調べるって、それ、わたしが?」

「逆にお聞きしますが、お嬢さま以外に誰が?」

「それは……ユーくんとか?」

「もちろんお手伝いはいたしますが、かの大魔法を体得するのはお嬢さまご自身でなければなりません」

 ユーリックは周囲を確認してから、わずかに身を乗り出してさらに声をひそめた。

「……目星をつけた書物をいくつか持ち帰ってきておりますが、いうまでもなくこれはお嬢さまと私以外の人間の目に触れさせてはいけません。少しずつ時間を見つけて、ふたりだけで研究を進めましょう」

「え~……?」

「え~、ではございません。旦那さまの跡を継ぐには避けて通れませんので」

 不服そうなクリオの前に自分のリンゴを置き、ユーリックは続けた。

「お嬢さまは、すでに“龍爪召喚マーノ・ドラキス”までは体得しております。ロゲ・ドラキスはマーノ・ドラキスのさらに先にあるもの……とりあえず進む道は間違っていないはずです」

「……本当にそうなのかなあ?」

「どういう意味です、お嬢さま?」

「何か違う気がするのよねえ……」

 クリオは頬杖をついて窓の外を見やり、もらったリンゴをしゃくしゃくとかじっている。彼女が急に何をいい出したのかよく判らず、ユーリックはスプーンを持つ手を止めて次の言葉を待った。

「――結局わたしもユーくんも、実際にはとうさんがロゲ・ドラキスを使うところを見たことないでしょ?」

「それは……確かにそうですが」

 駆龍侯ガラム・バラウールが衆人の前でロゲ・ドラキスを使ったのは、反フルミノールの旗をかかげた六国連合の王都侵攻軍を迎撃した、俗にいう王都決戦の際のただ一度だけとされている。少なくともユーリックたちが物心ついて以降、ガラムが大地の龍を召喚したことはなく、つまりユーリックたちは、その大魔法がいかなるものなのかを見たことはない。

「この目で見たこともないし、とうさんから具体的に教わったわけでもないけど、何ていうか……違うと思う」

「何が違うのです?」

「これまで特に気にも留めてこなかったけど、確か……わたしたちがまだ一〇歳にもならない頃だったかな? とうさんにいわれたことがあって」

「旦那さまが何と?」

「それは……な、ナイショだけど」

「は?」

「と、とにかく! いってたの! とうさんが!」

「だから何をです?」

「とうさんの一番の大魔法だけは、わたしひとりではどうにもできない、みたいなことをよ」

「ひとりではできない……?」

 クリオの言葉に、ユーリックはぐっと眉をひそめた。

 たとえばクリオがマーノ・ドラキスを使う際には、クリオは巨大な龍の爪の召喚とその維持を受け持ち、そのコントロールはユーリックにゆだねられている。クリオがマーノ・ドラキスのことを、ユーリックとふたりで使う特別な魔法と称しているのはそういう意味である。

 ただしそれは、少なくとも現時点では、ふたりで役割を分担したほうが効率がいいからそうしているだけにすぎない。やろうと思えば、クリオが召喚した龍の爪をクリオ自身があやつることも可能だし、いずれはそうなるべきなのである。

 だが、クリオがガラムから聞かされた言葉は、ロゲ・ドラキスはクリオ単独では絶対に使えない魔法だという意味にも受け取れる。

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