第五章 彼のいない狂騒の夜 ~少女たちの逃走劇~
肩越しに背後を一瞥し、レティツィアは表情をこわばらせた。
「……たぶんこの鹿の群れも、何者かの策だと思う。最初の一頭に何か仕掛けがあって、この群れはそれに率いられているのかもしれない」
「そ、そうなの?」
「古今東西の戦術を解説した古い書物に、角に松明をくくりつけた牛の群れを敵陣に突っ込ませるという計略があった気がする。それと似たようなものじゃないかな」
「そ、そういう
みずから進んで手綱を握ったとはいえ、アマユールもいっぱいいっぱいなんだろう。焦る少女の頭をそっと撫でながら、クリオもアドバイスを求めるようにレティツィアを見やった。
「焦らず徐々に速度を落としてください。少しずつ少しずつ……一気に群れから抜け出そうとすると、ほかの鹿にぶつかって危険ですから――はい、その調子です」
周囲の鹿がクリオたちとレティツィアの馬を追い越していく。やがて三人は、一心不乱に走り続ける鹿の群れの最後尾から吐き出されるように離脱した。
「ばあや……」
後ろを振り返り、アマユールが呆然と呟く。でも、もはやどこをどう走ってきたか判らない上に、日は完全に暮れていて明かりもなく、夜営地に戻りたくとも戻れない。夜空からわずかに射し込む月明かりがなかったら、三人は完全な闇に押し包まれていただろう。
「――――」
そばにユーリックがいない今の状況に、クリオは思わず身震いしてしまった。
けど、不安なのはレティツィアも同じだろうし、アマユールなんかはクリオたち以上に不安なはずだった。少なくともクリオやレティツィアは、魔法なり剣なり、自分の身を守るすべを持ち合わせているけど、アマユールにはそれがないのだ。国王の親戚という肩書きや立場なんて、今この場では何の役にも立ちはしない。
クリオは自分自身の不安をごまかすかのように、自分の前に座っている少女を背後から抱き締めた。実際、アマユールはクリオ以上に怯えて震えている。
「……レッチー」
静かに呼吸を整え、クリオはなるべくいつもと同じ調子でレティツィアに話しかけた。
「この場合、どうにか隊長たちと合流するのが正しいと思う?」
「はぐれたのがわたしときみだけならそうすべきだと思う。でも――」
今もまだ夜営地では戦いが続いているのかもしれない。ふつうならクリオとレッチーも戻ってみんなと合流し、いっしょに戦うべきだろう。けれど、今ここにはアマユールがいる。一行の最優先目標がアマユールを無事にボドルムに送り届けることであるなら、この子を連れて戦場に戻るのはむしろ絶対にやっちゃいけないことだ。
「危険だけど、今は少しでもボドルムに向かって移動したほうがいいかもしれない。敵の数も掴めないし、もし隊長たちが――」
そこでレティツィアは、ちらりとアマユールを一瞥して口を閉ざした。その先の可能性に関しては、たぶん彼女に聞かせたくなかったんだろうけど、レティツィアが何をいいたかったのかはクリオにも判る。
最悪のパターン――もし隊長たちが全滅してしまって、その上でなお動ける敵が複数いたとしたら、かならずクリオたち、というかアマユールを狙って追いかけてくる。あるいはこの瞬間にも、アマユールを狙って追っ手が現れるかもしれない。
だったらやっぱり、少しでも先に進んだほうがいい。
「……けどレッチー、どっちに進めばいいか判るの?」
街道はもちろん、夜営地のそばを流れていた小川すら見当たらない。この状態でどうやってボドルムを目指せばいいのか、クリオにはすぐに答えが出せなかった。
「最短距離を進むことは無理だけど、ひとまずは月を頼りに南西に向かえばいいと思う」
「あ、そっか、月か」
昇り始めたばかりの今の月を、つねに左斜め後ろに置くように馬を進めれば、おおむね南西に向かうことはできる。
「しかしレッチー、この暗さでは――」
「ご安心ください、アマユールさま。馬は人間などよりはるかに夜目が利く動物です。現にここまで平然と走ってこられたではありませんか」
「そ、そういえばそうだな……夜に乗馬などしたことがなかったから知らなかったが、そういうものか……あ、いや、でも、こっちが見えないのでは、馬をあやつりようがないのではないか?」
「明かりを用意するのは簡単だけど……追っ手に見つかったりしない?」
「背に腹は代えられないし、ごく小さな明かりくらいは仕方ないんじゃないかな」
レティツィアとうなずき合い、クリオは左手の人差し指に意識を集中させた。魔法陣を刻んだ爪のあたりがかすかに熱を帯びたような感覚が生じてすぐに、指先の少し上の空間に、ぽつんとちいさな炎が浮かび上がる。
「おお……やはり便利だな、クリオの魔法は」
「でしょ」
「月があそこにあるから――南西はあちらです。行きましょう」
クリオの炎をランタンに移し、レティツィアが先に立って移動を開始する。でも、さすがにさっきみたいな速さでは走らせられない。
「アマユールさま、ご存じですか?」
「な、何をだ?」
暗闇と沈黙が嫌なのか、アマユールはレティツィアの問いに迅雷の速さ食いついた。
「――これはわたしが祖父から聞いた内々の話なのですが、ボドルムの宮廷では、貴族の子弟たちを対象にした本格的な教育機関の設立が進められているようです」
「教育機関? 要するに学校のことか?」
「はい。戦後の復興もまだ道なかばというかの国では、軍事にしろ産業にしろ、その発展のためには人材育成からという機運が高まっているそうで……そこで我が国を手本に、まずは貴族の子弟たちを対象とした国立の学校を設立するのだとか」
それを聞いたアマユールは、鞍から身を乗り出して問いただした。
「そっ、それはわたしも入れるかな?」
「実際にその学校ができるのは数年後のことでしょうし、わたしにはまだ何とも……ですが、我が国をモデルとするのであれば、女子であっても入学は認められるでしょう。女性の人材を積極的に活用しなければならない時代ですし」
それは日頃からレティツィアが口にしていることだった。兵士として男女のどちらが優れているかは別として、これまでの戦争では戦場に立つ兵士は圧倒的に男のほうが比率が高く、つまりは戦死者数も多い。戦争が起こるたびにこうした状況が繰り返されていれば、男性人口はどんどん減っていってしまうだろう。そうなった時、政治なり軍事なりを男たちばかりがになっているようでは、いずれ国は立ち行かなくなってしまう。だからこそ、これからは男も女も関係なく、国のために貢献できる人材を育成していく必要がある――というのがレティツィアの持論だった。そして実際にレティツィアは、自分に向いていると思ったからこそ、ゼクソールで学んで軍人になろうとしているのである。
「そうか……もしわたしも通えるものなら通いたいな……勉強なら何でもいいんだ。魔法でなくても、剣術とか馬術とか、難しい学問でもいいから、とにかく学校に行って、ほかの子供たちといっしょにすごしてみたいな……」
「まったく……そんなこといえるの今のうちだけだよ?」
ぺたぺたとアマユールの頭を撫でつつ、クリオは大袈裟に溜息をもらした。
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