第五章 彼のいない狂騒の夜 ~鹿の群れ~
☆
結局、その日の夕食では、アマユールとカルデロン夫人にしか肉がなく、クリオたちの口に入ったのは乾燥させた鰊だけだった。
「……どこまで狩りにいったのだ、ユーリックは?」
久しぶりの入浴でつるんとした肌の艶を取り戻したアマユールが、自分のおなかを撫でながら呟いた。
「案外、獲物が多くなりすぎて困ってるんじゃない?」
クリオはそういって笑ったけど、実際には笑っていられる気分じゃない。
少し離れたところでは、ロッコ隊長やジュジュ先生、それにレティツィアたちが集まってぼそぼそと立ち話をしている。あれはたぶん、いまだに戻ってこないユーリックのことを話し合っているのだ。
「バラウールさん」
焚き火のそばにレティツィアがやってきて、意味ありげに小さくうなずいた。見ると隊長や先生たちがさりげなくこっちに視線を送っている。ちょっと来いといいたいのかもしれない。
クリオは膝に手を当てて立ち上がり、
「じゃあ交代ね、レッチー。まだ食事してないでしょ?」
「ええ」
この話題はアマユールには聞かせないほうがいいような気がする。さりげなくレティツィアと交代し、クリオは足早に隊長たちのところに向かった。
「バラウールさん」
声をひそめ、ジュジュ先生がいった。
「――ドゼーくんは、それなりに森の中での行動には慣れてるのよね?」
「はい。子供の頃から、父の屋敷の裏手に広がる森に入って小さな鳥や兎を狩るくらいのことはしてました。ここまで大きな森に来たのは初めてですけど、まるっきり何も判らないってことはないです」
「じゃあ、森で迷ったなんてことは――」
「まずありえないと思います。わたしじゃあるまいし」
「ということは、何か想定外のことが起こった、か……」
髭をいじる隊長の手が止まる。
クリオたちが入浴をすませてからもう三〇分――ユーリックがひとりで狩りに出てから一時間はたっている。もう日は暮れていたし、たとえ狩りの成果が出なくても、ちゃんと空気が読めるユーリックなら日没前には戻ってくるだろう。
だから、隊長が言葉を途切らせたように、この状況を見れば――クリオとしては心中おだやかじゃないけど――何かがあったと考えるのが自然だった。
「困ったわねぇ……」
ジュジュは頬に手を当て、溜息とともにうつむいた。
ユーリックを捜すために人手を割くというのは、この一行の目的を考えればまずありえない。そもそもユーリックがひとりで狩りに出たのも、夜営地の守りを手薄にしないためだったわけだし、これからの時間帯は危険な獣の行動も活発になるから、むしろ夜警の数を増やさなきゃいけないくらいだった。
「それじゃわたしが――」
ひとりで捜しに出るといいそうになり、クリオは口もとを押さえて焚き火のほうを振り返った。
アマユールを守ると決めたのなら最後まで放り出すな――狩りに出る前にユーリックに念を押されたことが脳裏をよぎる。ここで夜営地を離れてユーリックを捜しにいくのは、守ると決めたアマユールを放り出すことになるかもしれない。そう思うと迂闊なことはいえなかった。
その時、どこか遠くから大量の鳥がいっせいに飛び立つ音が聞こえてきた。
「な、何だ、今のは?」
焚き火のそばでびくっと驚いて立ち上がったアマユールを、すぐにカルデロン夫人が抱き締める。
「ちょっと待って」
ジュジュ先生は自分の足元に旋風を巻き起こし、周囲の木々よりも高い夜の空へと舞い上がると、ぐるりと四方を見回してからふんわり下りてきた。
「えぇと、あっちだから――北? 北のほうで煙が上がってます。何かあったのかも」
「煙ですと!?」
ジュジュ先生の報告を聞いた隊長は、近衛兵たちに号令をかけた。
「全員、警戒体制を取れ! また襲撃があるかもしれん!」
一方、ジュジュ先生は生徒たちを集め、
「みんなはいつでも出発できる準備をして、アマユールさまと夫人のそばについててちょうだい。状況がはっきりしてきたらわたしから指示を出すけど、くれぐれも油断しないでね?」
「は、はい!」
クリオたちは少ない荷物をまとめ、馬に水と餌をあたえた。
「馬が緊張しているな」
クリオにはよく判らないけど、アマユールには馬の様子がいつもと違うことが判るようだった。
「そうなの?」
「うん。何かに怯えているような気がするぞ」
「異変が起こってることを感じてるってこと?」
「かもしれない。……一頭だけふてぶてしいのがいるけどな」
そういってアマユールが指差したのは、ユーリックが選んだ真っ黒い馬だった。近衛たちが緊張の面持ちでせわしげにしている中、その馬だけは平然と、食材として持ってきたニンジンをぼりぼり食べている。確かにふてぶてしい。その落ち着きっぷりは、何となくユーリックにかさなるような気がする。
ニンジンの袋に鼻面を突っ込んでいたその黒馬が、不意に首をもたげて耳を動かし始めた。
「む? 様子が変だぞ、クリオ」
「えっ?」
馬に倣って耳を澄ますと、地響きにも似た音が近づいてくるような気がする。レティツィアは腰に剣を下げ、ユーリックの馬の手綱を取った。
「バラウールさん、アマユールさまといっしょに馬に!」
「う、うん!」
「というか、手綱はわたしが握ったほうがいいぞ、はっきりいって!」
クリオより先に馬によじ登ったアマユールが、鞍上から手を伸ばしてクリオを引っ張り上げた。カルデロン夫人やレティツィアは目くじらを立てるかもしれないけど、実際、いざという時はアマユールに任せたほうがいいとは思う。手綱をあやつるために両手がふさがっていては、ここぞという時に魔法が使えないからである。
その時、夜営地に巨大な鹿が飛び込んできた。
「うおっ!?」
人間たちの間をたくみに駆け抜け、焚き火を飛び越え、その鹿はあっという間に闇の向こうに走り去っていった。
「な、何、今の……?」
「どう見ても鹿だったぞ」
「そういう意味じゃなく、どうして鹿がわざわざ人がたくさんいる夜営地に飛び込んできたのかって――」
クリオの疑問の呟きが終わる前に、あの地響きが急に大きく聞こえてきた。
「!?」
「き、気をつけろ!」
近衛の誰かが大声で叫んだけど、それを無数の蹄の音がすぐにかき消した。
「!」
さっきの大きな鹿を追いかけるかのように、おびただしい数の鹿が夜営地に雪崩れ込んできた。大きいのから小さいのまで数十頭はいるけど、どれもこれも何だか鼻息が荒くて怖いし、そもそもこのいきおいで激突されたら大怪我は確実、うっかり転んで踏みつけられたらまず助からない。
「バラウールさん! 迂闊にかわそうとしないで!」
どこからかジュジュ先生の声が聞こえてくる。
「そ、そんなこといわれても――」
「任せろ、クリオ!」
アマユールが手綱を鳴らして馬をスタートさせた。鹿たちに激突されることなく、何となくうまい具合に群れの中に呑み込まれる感じで、いっしょに夜営地を飛び出し闇の向こうへ疾走していく。
「どっ、どこに行く気よ!?」
「わたしに聞くな! どうにか群れの中心から離れて――」
「待って、このまま走って!」
その声に振り返ると、すぐ後ろをレティツィアが馬で追走していた。
「レッチー!?」
「鹿の群れが突っ込んでくるのに合わせて、何者かが襲撃を仕掛けてきたんだ! 迂闊に戻ると戦いに巻き込まれる!」
「えっ!?」
レティツィアの頭越しにさらに後方を見やると、夜営地に設営したテントが燃え上がり、あたりの宵闇を押しのけていた。断続的に走る赤い光芒は、たぶん火矢によるものだろう。
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