第一章 束の間の休息 ~学長からの呼び出し~
「お嬢さまひとりではどうにもならない……? どういう意味でしょう? 現に旦那さまは、おひとりでロゲ・ドラキスをお使いだったはず――」
呟くようなユーリックの問いに、クリオは小さな溜息といっしょに首を振った。
「判んないよ。でも、今のわたしはマーノ・ドラキスさえひとりじゃちゃんと使いこなせないわけだし、何が足りないのかを想像することもできない。……あんまりこういうこといいたくないけど、もし根本的にやり方が間違ってたらどうする?」
「根本的に……ですか?」
「うん。わたしたちがこれでいいと思って走ってる道が、実はぜんぜん違う方向に向かってて、たとえこのまま進んでも目的地に着かないんだとしたら――」
「だからといってこの場に立ち止まっていても、進む道が正しいかどうか判断はできませんよ」
珍しく弱気なクリオの言葉をさえぎったユーリックは、かじりかけのリンゴを持つ少女の手にごつごつした自分の手をかさねた。
「とにかく前に進むことです。前に進んでみて、その方角が間違っていると判った時に引き返せばいいのです」
「もしそれで手遅れになったら? 五年の猶予しかないのに」
「その時は大慌てで引き返せばいいのですよ。第一、五年で成果を見せると啖呵を切ったのはお嬢さまですよ? いまさらそのように弱気になるとはお嬢さまらしくもない。何かございましたか?」
「…………」
少し唇をとがらせ、クリオは無言のままふたたびパンをちぎり始めた。ちぎられたパンはそのままスープの中にぽとぽと落ち、食べられることもないままふやけていく。焼いてから時間がたって硬くなったパンならこういう食べ方もいいが、けさ焼かれたやわらかいパンをこんなふうにスープにひたして食べるのはもったいない。
「夢をね」
「夢ですか」
「うん」
クリオの手の中のパンがすべてスープの中に沈んだのを見て、ユーリックはトレイごと自分と彼女の食事を交換した。
「パンはパンでお召し上がりください。……で、どういった夢をご覧になったのです?」
「子供の時の――とうさんから魔法を習ってる時の夢。それでね、ユーくんの手足を作る魔法を習い覚えてる時に、とうさんがさっきいったようなことをいってたのを思い出して」
クリオとユーリックが同じ日に幼少期の思い出を夢に見たのは、はたして偶然だったのか。手足を動かすための魔力を定期的にクリオから注入される際に、ユーリックの視覚記憶がクリオに還流することがあるのを考えると、そういうことがあってもおかしくないのかもしれない。
「あの時のわたしに細かい話をしても理解できないと思ったから、きっととうさんはそれ以上詳しくはいわなかったんだと思う。でも、今思えば、あれはとても重要なことを教えたかったんじゃないかなって……」
「かもしれません。ですが、旦那さまがお亡くなりになった以上、いまさらそのことで思い悩んでも何も解決しません」
ふやけたパンもろともスープをスプーンですくって口に運び、ユーリックはいった。
「どこの馬の骨とも知れない男と結婚するのは嫌、この国から逃げ出すのも嫌、旦那さまの所領を取り上げられたままというのも嫌――ならば勝ち取る以外にございません。心血をそそいでロゲ・ドラキスを我がものとし、陛下に駆龍侯襲名を認めていただくのです」
「……そうだね」
そのほうが自分らしいと思ったのか、クリオは何度もうなずいた。
「――やあ、ドゼーくん、おはよう」
そこへ、朝日を跳ね返してきらきらと輝く美しい金髪を揺らし、レティツィア・ロゼリーニがやってきた。
「おはようございます、レティツィアさま」
ユーリックが慇懃にあいさつを返すと、クリオはちらりと優等生を見やり、
「わたしには?」
「きみには朝起きた時にあいさつしたと思うけど? もう忘れたのかな?」
澄まし顔で応じ、レティツィアはクリオの隣に腰を下ろして朝食を食べ始めた。
クリオがレティツィアと同室になったのは、単なる偶然なのかもしれないが、クリオの成長をうながすという意味ではよかったと思う。優等生の立ち居ふるまいを一日中そばで見ていれば、クリオもおのずと学ぶものが多いだろう。
「そういえばきみたちも掲示板で呼び出されていたね」
「何の話?」
「見ていないの? 学長から名指しで呼び出されているよ」
「けさはまだ掲示板を見ていませんでした。呼び出しを受けるような心当たりはないのですが……きみたちもとおっしゃるからには、まさかロゼリーニさまも?」
「ええ。用件は判らないけど、女子生徒ばかりだったよ。ざっと見たところ、男子生徒はドゼーくんだけだった気がする」
「ユーくんとレッチーもいっしょなら、悪いことで呼び出されたわけじゃないね」
試験の成績が極端に悪ければ、学科の担当教官から呼び出しを受けることもあるだろう。しかし、学長から呼び出されるというケースがそう多いとは思えない。呑気なクリオにあきれつつ、ユーリックはレティツィアに尋ねた。
「――レティツィアさまのほうには何かお心当たりは?」
「判らないから不安半分、期待も半分というところかな。放課後にいっしょに行ってみよう」
「はい」
ふやけたパンをスープとともにたいらげたユーリックは、少女たちのおしゃべりを聞きながら窓の外の風景に目をやった。
入学して数か月、ユーリックもクリオもここでの生活にはもう慣れた。ただ、周囲を見回せば、軍人を養成するこの学校に馴染めない落伍者がぼちぼち出始めている。おそらく今回の試験の結果いかんでは、一年生の中から自主退学の道を選ぶ生徒も出てくるかもしれない。それはクリオにも決して無縁の話ではないのである。
☆
その日リュシアン三世は、執務の合間を縫って、王城の一角に作らせた研究室に向かった。その背後につきしたがうのは、フルミノールの元老ともいえる大宰相ジャコモ・ロゼリーニ翁と、陸軍で長く将軍職に就いていたガイエン・モーズである。
「あまり無理をせぬほうがよいぞ、モーズ卿? つい先日も、馬に乗ろうとして腰を痛めたというではないか」
今年七二歳になるロゼリーニ翁が、自分より二〇以上も若い軍人をからかうように笑った。
「まさにそれ、長く戦場を離れているとこのような醜態をさらすことになるという実例でして……それゆえ、若い生徒たちをいましめるにはむしろ都合がよいかと」
「相変わらずあなたは前向きだな。……まあ、先方の顔を立てる意味もあるし、もうしばらくは我慢してほしい」
「はい」
昨年まで王立陸軍兵器局のトップにいたモーズ卿が、この春から兵務局管轄の陸軍学校の学長職を命じられたのは、深く考えるまでもなく降格人事である。しかし、モーズ卿に何か落ち度があって降格されたわけではない。
「あれはさすがにブロッホが悪かろう」
どこか面白そうにロゼリーニ翁は小柄な身体を揺らした。
「――名門だ何だといばり散らすのであれば、息子たちにたっぷりと小遣いをくれてやっておればよかったのじゃ。そこを出し惜しみするから、バカ息子どもが軍需物資の横流しなどやらかす」
良家の子弟たちが引き起こした犯罪を厳しく取り締まった結果、モーズ卿は大貴族ブロッホ家の恨みを買ってしまった。そのためリュシアン三世は、モーズ卿の身を案じて異動を指示したのである。
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