第一章 束の間の休息 ~国王の秘密研究室~
「本来なら、正しいことをしたあなたを降格などさせたくないのだが、ブロッホ家の長老は頭が固い上に、お年を召していささか激しやすくなられたようだからな。適度に溜飲を下げさせてやらないと、孫可愛さに何をしでかすか判らない」
「いや、すべて承知しておりますぞ。陛下のご配慮にはお礼の申しようもございません」
「ふん……どうせブロッホ家の長老なぞ、あと一、二年もすれば天に召されますわい。さすればモーズ卿を前職に戻したところで文句をいう者などおりますまいよ」
「いやはや、ロゼリーニ翁もなかなか過激なことをおっしゃられる」
こちらは腹の肉を揺らして笑ったモーズ卿は、ふと表情をあらため、国王に尋ねた。
「――話は変わりますが、何か成果は出たのですかな?」
「まだすべてを調べたわけではないが、あまりかんばしくはないな」
城内の広い庭園の中に建つ小さな尖塔が、国王の許可がない者は近づくことも許されないリュシアン三世の秘密の研究室だった。
「確かにどれも貴重な書物には違いないが……しかし、金を出せば誰でも買えるものでしかない」
衛兵たちに守られた尖塔の中では、四、五人ほどの男たちが、大きなテーブルの上におびただしい数の書物を開いて何やら討論を繰り広げているようだった。
「こ、これは陛下! それに、大宰相閣下にモーズ卿まで……」
国王たちの到着に気づいた男たちが、椅子から離れて慌てて一礼した。
「気遣いは無用、そのまま作業を続けてほしい」
「は……」
国王の言葉に、ふたたび男たちが話し合いに戻る。モーズ卿は剥げかかった頭の汗をハンカチでぬぐい、丸い壁に沿って配された書架をぐるりと見回した。
「これがバラウール卿の蔵書、ですか――」
「あの男がこの国に現れてから死ぬまでわずか一八年……その間にこれだけの量の書物を集めておったとはな」
顎から垂れ下がる白い髭をいじりながら、ロゼリーニ翁も感嘆の吐息をもらした。
「――貴族の仲間入りをしたあの男が、派手に散財したという話はついぞ耳にしませんでしたが……なるほど、所領からもたらされる収入の大半は、このコレクションのために使われておったのかもしれませんな」
「おそらくそうだろう」
「ですが陛下、ガラム・バラウールの死によって国家に返却されるのは、広大な所領と屋敷だけのはずでは?」
「ああ。余と彼女の取り決めいかんにかかわらず、この蔵書は、クリオドゥーナ・バラウールが父の遺産として受け継ぐべきものだよ。……ただ、少しくらい借りてもいいだろう? 五年間の猶予をあたえた上に、その間、特別に恩給も出してあげているのだからね」
年に似合わない悪戯っぽい表情で国王が笑った。
「――こうしてその道に明るい学者たちを集め、調べさせてはいるが、現在のところ、ガラム・バラウールの蔵書からは、彼だけが使うことのできたロゲ・ドラキスの真訣らしきものは見つかっていない」
「ざっと背表紙を見たところ、大半は魔法に関する書物のようですが……」
「本人が記した日記なりあればいいのだが、まだそういったものは見つかっていない。そこで今は、蔵書にある細かな書き込みに何か手がかりでもないかと調べさせているところだよ。一見無意味に思える落書きが、実は何かの暗号なのではないかという可能性もなくはないからね」
「そうですか……それはまた、気が遠くなりそうな話ですな」
「モーズ卿よ」
ちょうどいい高さに積み上げられた書物の山に腰を下ろし、ロゼリーニ翁はいった。
「――貴公は実際に見たことがあるか? あの男のロゲ・ドラキスを」
「はい。当時の私はまだ下士官のひとりでしたが、小山のように巨大な龍が大地から現れ、連合軍の兵士たちを蹴散らしていったさまはよく覚えております」
「では、ロゲ・ドラキスがいかなるものであるか、貴公には想像がついておろう?」
「大雑把に申し上げれば……あれはおそらく、とてつもなく巨大なゴーレムを作り出して使役する魔法でしょうな。ただ、単純にそれだけとも思えない部分もございますぞ」
「ほう、なぜかな? ロゼリーニ翁のところのレティツィア嬢も同様の意見のようだが」
「法兵科を出た同窓の者に聞いてみたことがあるのですが、熟練の魔法士とはいえ、あそこまでの質量を持つゴーレムを作り出すことは容易ではないと……しかもそれを駆龍侯は、同時に三体も作り出し、自在に動かしていたのですぞ?」
「つまり、既存の魔法を単純に拡大、強化しただけのものではない――と?」
「自分は魔法が不得手ですので、あまり偉そうなことは申せませんが、おそらくそうなのではないかと……」
「ふむ……もし本当にロゲ・ドラキスがそのようなものであるなら、やはり鍵を握るのはクリオドゥーナ・バラウールということになるか……」
リュシアン三世は目を細め、しばし思案したのちにモーズ卿に命じた。
「モーズ卿には、もしロゲ・ドラキスの真訣が掴めそうであれば、何を置いても最優先で調べてほしい。……ただし、内々のうちにだ」
ロゲ・ドラキスは大陸の覇権争いの趨勢さえ変えかねない強大な力である。一八年前は、幸運にもそれを味方につけることに成功したフルミノール王国が、六国連合の侵攻を撃退することに成功した。
だが、次もそうなるとはかぎらない。ガラム・バラウールが死んだ今、逸早くロゲ・ドラキスを手に入れなければ、ふたたび他国から侵略される可能性もありうる。少なくとも、あの力を他国に奪われるわけにはいかなかった。
「よその国はいざ知らず、アフルワーズは今でも我が国を激しく敵視している。今のうちに、かつての六国同盟を切り崩さなければならない。ロゲ・ドラキスのこともそうだが、アマユールの件も――」
「承知しておりまする」
もともと曲がっている腰をさらに折り、老宰相は国王に一礼した。
☆
赤毛を泡だらけにしていたマルルーナは、クリオとレティツィアの話を聞いて目を丸くした。
「ちょ――そ、それほんだたたっ、いたたっ!」
「何やってるのよ……そりゃしみるって」
クリオは手桶で湯をすくい、マルルーナの頭にそそぎかけた。
「カントレールさん、内密にとはいわれていないけど、大声で喧伝するようなことでもないから、少し抑えてもらえる?」
「は、はい、すいません……」
クリオの手を借りて泡を流したマルルーナは、目もとをこすりながら湯船に身を沈めた。
きょうの大浴場の利用は一年生と五年生の番だった。多少のばらつきはあるにせよ、五年生ともなれば、どんなに若くても二一歳、中には二五歳の女性もいる。まだ一六、七のクリオたちとくらべると、さすがにみんな大人っぽい。
そんな先輩たちに聞かれないよう、マルルーナはことさら声をひそめ、
「……そ、それで、さっきの話、本当なんですかー?」
「学長が生徒たちに嘘をつく理由がある?」
「…………」
小さな椅子に腰掛けて豊かな金髪に櫛を通すレティツィアを、クリオは湯船の縁に顎を乗せてぼんやりと見つめている。視線の先にあるのはきゅっと引き締まった少女のふくらはぎだった。
「それにしても、大貴族のお供ですかー……」
顎のあたりまでお湯に浸かったマルルーナは、ちゃぷちゃぷと目を洗い、静かにゆっくりと溜息をついた。
けさ掲示板で呼び出されたクリオたちは、放課後の自由時間に学長室に集められ、モーズ学長から話を聞かされた。いわく、来週から始まる二週間の夏期休暇中、さる大物貴族の護衛として狩りに同行してもらえないかという。狩りといっても、王家が所有する広大な森の中で陣を張りつつ移動する、三泊四日をかけておこなう一種の小旅行のようなものだった。
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