終章 黎明の風 ~戦慄の夜が明けて~




 大きな古木の根元にできたうろの中で、アマユールと抱き合ったまま夜を明かしたクリオは、馬のいななきを聞いたような気がして目を覚ました。

「――――」

 すでにあたりは明るかった。少女たちの髪を揺する風には、夜明けのさわやかさ、涼やかさがある。

「……アマユール、起きて」

「ん――」

 アマユールを揺り起こし、クリオはそっと洞から這い出した。

 かすかに立ち込めた朝霧が、あたりの風景を淡くにじませている。姿勢を低くしたまま静かにあたりの様子を窺っていると、ふたたび馬のいななきが聞こえ、それに続いて複数の人間がクリオやアマユールの名前を呼ぶ声が響いてきた。

「! 今の声……もしかしてレッチー?」

「……ばあやの声もしたような気がするぞ」

 目をこすりながらクリオの隣にやってきたアマユールが、大きなあくびを嚙み殺して呟いた。

「敵の罠……じゃないよね?」

 すぐに返事はせず、用心深くしばらく聞き耳を立てていたけど、それはやっぱりレティツィアやカルデロン夫人の声だった。ほかにも多くの人間がふたりの名前を呼ばわりながら、徐々にこちらへ近づいてきている気がする。

「く、クリオ! みんなが来てくれたみたいだぞ!?」

「うん、そうだね」

 窮地を脱したと知ってほっとしたクリオは、でも、まだうまく笑うことができなかった。その表情に気づいたのか、アマユールはクリオの腰にしがみつき、

「……そんな顔をするな、クリオ。わたしはゆうべのクリオの言葉ですごく気が楽になったんだ」

「そ、そうなの……?」

「うん。わたしはボドルムに行く。それが今のわたしの決断だ」

 追っ手を倒してふたりきりになった時、クリオが切り出した提案に対して、アマユールはこのままボドルムに向かうことを選んだ。自分の死を偽装してこの状況から逃げ出し、たったひとりで生きていくという選択が、弱冠一一歳の少女にはあまりに非現実的に感じられたってこともあるだろうけど、アマユール自身は、もっと前向きな理由で未来を選び取ったとクリオにいった。

「――そもそもわたしは毎日くらいのペースで入浴できないと我慢できないからな。クリオに仕送りしてもらってこっそり慎ましやかに暮らすとか無理だ、無理」

「まあ……だよね」

 顔を見合わせて苦笑し、ふたりは声のするほうへと歩き出した。

「だから思ったのだ。わたしはボドルムに行って、そこでやりたいことをやる。輿入れといったって、実際に結婚するのは成人してからだし、だったらそれまでに、レッチーがいっていた新設される学校にも通ってみたい。で、いろんなことを勉強する。政治のことも勉強して、将来的にはわたしがボドルムの実権を握る!」

 拳を握り締め、少女は鼻息荒く宣言した。ちょっとボドルム側の人間には聞かせられない決意表明だけど、でも、アマユールが顔を上げて前を向けたのならとりあえずはそれでいい。

「もしあとあと後悔するようなことがあれば、その時はあらためてクリオを頼るから、今はそんなに気にしなくていいぞ?」

「そうだね。その時はわたしも駆龍侯ドラキスになってるだろうから、颯爽とボドルムまであなたをさらいにいってあげるよ」

「うーん、それはちょっと不安だな。クリオだけじゃ……」

 そういいかけ、アマユールははっと口を閉ざした。たぶん、クリオの顔色がすぐれないもうひとつの理由に思い当たったんだろう。

「…………」

 近衛たちがあの賊たちをどうにか撃退してクリオたちを捜しにきてくれたのだとすれば、あの名前を呼ぶ声の中にユーリックのものがないのはなぜなのか。というか、ユーリックであれば、近衛隊が賊を撃退しようが賊に撃退されようが、たったひとりででもクリオを捜して駆けつけてくるだろう。

 なのに、ユーリックの声は聞こえない。その事実がクリオの表情をこわばらせているのだった。

「――バラウールさん!? アマユールさまも!」

 がさがさと低木の枝をかき分けて歩いていると、向こうの木の陰から、包帯だらけのレティツィアが顔を出した。

「レッチー!」

「隊長! 先生! いました! ふたりとも無事です!」

 その後ろにみんないるのか、レティツィアは肩越しに大声でそう叫ぶと、ひょこひょこと片足を引きずるようにしてクリオたちのもとへと駆けてきた。

「アマユールさま! ご無事でしたか!?」

「まあ何とかな。さすがは未来の駆龍侯、危ないところを何度もクリオに助けられた。もちろんレッチーの献身にも感謝してるぞ?」

「おひいさま!」

 アマユールがレティツィアを相手にいつもの饒舌さを発揮していると、後ろのほうから、ロッコ隊長にささえられてガミガミ夫人がやってきた。お洒落なドレスはボロボロ、髪もぼさぼさに乱れていたけど、ゆうべのあの混乱の中を生き延びることができただけでも運がいいのかもしれない。実際、あちこちから集まってくる近衛たちはみんな満身創痍といった様子で、無傷の人間はひとりもいないといっていい。

 ただ、もはや見慣れた感のある勢子せこの衣装の近衛たちに交じって、本来のきらびやかな衣装をまとった近衛兵の姿もちらほらと見受けられる。

「王都からの援軍が間に合ったんだよ」

 クリオの疑問を先取りして、レティツィアが答えた。

「どうも今回の襲撃には、アフルワーズの特殊部隊が一枚噛んでいたらしい。その情報を掴んだ陛下が援軍を送り込んでくださったんだ。……もちろん、ボドルムを刺激しない規模のささやかなものだけど、もし彼らが間に合っていなかったら、わたしたちは全滅していたかもしれない」

「そうなんだ……」

 せっかく説明してくれたレティツィアの言葉をなかば聞き流し、クリオはきょろきょろとあたりを見回した。夫人と抱き合って再会を喜んでいるアマユールを中心に、あらためて彼女を守るべく、近衛たちが集まって十重二十重と取り囲んでいく中に、ユーリックも交じっているんじゃないかと思ったのである。

 だけど、やっぱりどこを見てもユーリックの姿はない。

「……ねえレッチー」

「大丈夫だよ」

 クリオの言葉にレティツィアがすぐにかぶせてきた。

「大丈夫。大丈夫だから――」

 そう繰り返すレティツィアが何をいいたいのか、クリオにはもう判っていた。判っていたけど判りたくなかった。

「テキトーなこといわないで!」

 肩に手を置こうとするレティツィアを振り払い、クリオはあたりを意味もなく歩き出した。木の幹に寄り掛かって休む者、傷の手当を受ける者、安堵の笑顔を浮かべている者、友人の死を悼む者――混乱の一夜を生き延びた近衛兵たちは、それぞれにさまざまな表情を見せている。クリオは彼らの間を縫うように歩き回って、武骨な腕を持つ幼馴染の姿を捜した。

 でも、やっぱりいない。ユーリックはどこにもいない。

「バラウールさん! ねえ――クリオ! 落ち着いて!」

 追いかけてきたレティツィアがクリオの手を掴んだ。ふと見ると、少女の腕には真新しい包帯が巻かれている。それがゆうべクリオたちを先に逃がすために孤軍奮闘した結果なのだと気づいて、クリオは彼女を怒鳴りつけてしまったことを後悔した。

「……ごめん」

「あやまらなくていいから、とにかく落ち着いて」

 レティツィアはクリオをそっと抱き締めると、なだめるように背中をぽんぽんしてくれた。

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