第二章 彼らの嘘 ~チャグハンナ~
寒冷な風土のおかげで腐れの病のいきおいが弱まったあとも、ガル・サルゴンと彼らに率いられた南方人たちは、故郷に戻ることなくこの地にとどまった。緑のある暮らしの豊かさを知ってしまったためとも、死が蔓延した故郷には帰るに帰れなかったともいわれているが、いずれにしろ、彼らは肌の白い北方人たちとの衝突や軋轢を繰り返し、数々の労苦の末に、ここにアフルワーズという国の礎を築いたのである。
そして建国から三二七年を数える今年、アフルワーズ中興の立役者と謳われる一三世酋長シェルガドは病床に就いていた。一八年前、六国同盟を成立させてフルミノールを王都陥落寸前まで追い詰め、アフルワーズを北大陸随一の強国に押し上げた稀代の大酋長も、寄る年波にはあらがえないのだろう。
「ドラキスに横槍を入れられて三〇〇年の悲願を達しえなかったのは……ま、不可抗力だろうぜ。親父どののせいじゃあない。ほかの誰であっても無理だったんだろう。――見てないからオレは知らんがね」
天井に向かって煙草の煙を吐き出し、ウバイドは笑った。弱冠二十歳の若き王子の左右には、透けるような薄衣をまとった美女たちがかしずき、煙管やワインのグラス、みずみずしい果物を盛った銀の盆を捧げ持っている。ひとり立ち尽くしているサブルーのことなどさして気にしている様子はない。この若者は、当然のように持って生まれた傲慢さを隠そうとはせず、そうふるまうことに慣れていた。
「ともあれ親父どのは、過去三〇〇年の中でも三本の指に入る偉大な王だった。親父どのより確実に上といっていいのは、ま、アフルワーズを建てた一世酋長くらいのもんだ。フルミノールを滅ぼしていたら一世をしのいでいたかもしれんが、さすがにもう時間切れだぜ」
「若……そのようなものいいはおやめください」
太い腕を組み、サブルーは渋い顔でたしなめた。
「陛下はまだご健在でございますぞ?」
「過去形で語るなってか? こんなことをいちいち不敬だ何だと騒ぐ親父どのでもなかろう? それに、親父どのが死にかけてるのは事実なんだからな。――だいたい、親父どのは今いくつだ? おまえよりひと回りは上だったはずだな?」
「それがしが今年で五二……ですから陛下は六七におなりでございます」
「親父どのが老け込むのが早かったのか、それともおまえが年甲斐もなく元気すぎるのか」
「若」
ふたたびサブルーがたしなめたが、ウバイドの舌は止まらない。銀の盆から摘まみ取った葡萄を口に放り込み、悪びれた様子もなく続ける。
「三〇年以上親父どのに仕えてきたおまえだからこそ判るはずだろ? フルミノールに攻め入った頃の親父どのは確かに英邁果断な男だった。もともとオレたち一族とは敵同士だったはずの周りの国々を口説き落として味方につけ、フルミノールを囲んで滅ぼす一歩手前までいった。――でも今はどうだ? ま、あれでも人間だから病気になっちまうのは仕方ない、そこはいいぜ。けど、病気だからって放置してちゃダメなこともあるよな?」
「…………」
酒の入ったウバイドに何をいっても無駄だろう。サブルーは静かに溜息をつき、ウバイドのそばにはべっている美女たちと楽士たちに向かって無言で手を振った。ここから先の話は、余人を交えずに進める必要がある。
「待てよ、おまえが代わりに踊るのか? 音楽もなしとか盛り上がらんことこの上ないな」
女たちが奥に下がったおかげで急にがらんとしてしまった広間を見渡し、今度はウバイドのほうが溜息をついた。巨大なクッションに身体を預け、頬杖をついて気難しげな表情の老人を見やる。
「……大胆さは若の長所のひとつともいえますが、それには用心深さがともなっていなければなりませぬぞ」
「オレは不用心か?」
「大胆さとくらべれば、いささか。若には敵が多いということ、お判りでしょう? 迂闊な発言をなさって揚げ足を取られでもしたら――」
「オレは正直者でな。そこもオレの長所だろ」
ウバイドは目の前の床を指差した。その意図を察してサブルーがあぐらをかいて座ると、ウバイドは空のグラスを渡して手ずからワインをそそいでくれた。
「かたじけのうございます」
「老人はいたわらねえとな」
「そうお思いであれば、それがしの心労をおもんぱかってくだされ」
「それこそ親父どのにいえ。おまえがいつもそうやって苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、明らかに世継ぎ問題のせいだろうが」
「…………」
無言でワインをすすり、サブルーはひとつしか残っていない瞳を伏せた。
その命が旦夕に迫っていると噂されながら、大酋長シェルガドはいまだに誰を世継ぎにするか明言していない。そのことがこの国の王宮の空気を不穏なものにさせていた。
「こっちに来て三〇〇年も生きてりゃこっちの色に染まるのが当たり前だが、世継ぎの決め方だけはなぜか昔と変わらん。法だの血統だのより先代のひと声が優先される。ってことはだ、親父どのがくたばる前にカタをつけておかなきゃならねえのもこの問題だろ?」
「陛下とてそこは深くお考えのはずです」
「考えてても口に出していわなきゃ考えてねえのと同じだぜ? もしホントにこのままくたばったら内乱になる」
ウバイドのいう通り、過去に後継者を指名しないまま大酋長が急逝したことで、その子供たちが次の王座をめぐって骨肉の争いを繰り広げた前例は一度ならずあった。それを知らないはずはないシェルガドが、病床にあってもなお世継ぎを指名していないのは、おそらく迷いがあるからだろう。
「現在のところ、もっとも有力なのは次男のチャタルさま……権謀術数に長けておいでですし、周辺諸国と渡り合っていく上ではチャタルさまを酋長にいただくのがよいというのが、多くの重臣たちの意見ではないかと」
「チャタル兄貴はオレと違って陰険だからな」
「それに次ぐのがシュルギさま……妾腹とはいえご兄弟の中では一番の年長者でいらっしゃいますし、陛下に気性が似ておられます」
「確かに親父どのはシュルギ兄貴を頼りにしてるかもな。――で、おまえの考えだとオレは三番手ってわけか」
「残念ながら、五番手にすら入っておりませんな」
「おい」
「それがしだけの考えではございませぬ。都の人々が噂するところでは、まずはチャタルさま、シュルギさま。あとはザババさまジャムザさまご兄弟も、ご母堂のご実家が大富豪でございますし、女ながらご長女のアマルナさまも――」
「もういい。さらに酒をまずくさせるな」
大袈裟に手を振ってサブルーのセリフをさえぎり、ウバイドはグラスを置いた。
「……今はまだ五番手だろうと六番手だろうとかまわんだろう? 悪目立ちして足を引っ張られるよりはよほどましだからな」
「やはりそうお考えでしたか」
「おとろえたといっても、親父どのもそう簡単にはくたばらんだろう。あと何年か、このまま寝たり起きたりを繰り返してもらっているうちに、何とか一番手に躍り出てやるさ」
「さすがは若、それがしが見込んだだけのことはございますな」
「それだよ、それ! もっとオレをほめろ。けなすな、ほめてろ」
「そんな若の一助になればと思いまして」
「何だ?」
ふたたびグラスを持ったウバイドに上等なワインを勧め、サブルーはことさらに声をひそめた。
「……“チャグハンナ”が動き出したようです」
「は? この時期にか?」
「向かった先はフルミノールだとか……奇妙だとは思われませぬか?」
チャグハンナは大酋長直属の特務部隊とされている。特務部隊といえば聞こえはいいが、明確な軍規で律せられた組織ではなく、そもそもアフルワーズ軍の組織図にその名前はない。いわば大酋長の命令だけを忠実に実行する少数精鋭の戦闘集団のようなものである。
当然、彼らに命令を出せるのは代々の酋長のみであり、今は一三世シェルガドだけということになる。が、当のシェルガドは病床にあって、いまだに自力では起きられないありさまだった。
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