第一章 束の間の休息 ~フトッチョがんばる!~

 芝生の上に座り込み、コルッチョは額の汗をぬぐった。入学以来、ユーリックはコルッチョと同室で寝起きをともにしているが、この少年が痩せたようには見えない。コルッチョのふくよかな身体を作り上げた一因は母親の甘やかしだというから、確かに彼の母親なら落第せずとも今すぐ戻ってこいというだろう。

 しかし、父親のほうはそこまで甘くはない。コルッチョの呟きはそういっていた。

「まあ、おれもおまえには落第してほしくはないからな。できることなら手伝ってやる」

「ゆ、ユーリックくん……! ありがとう!」

 コルッチョは瞳を潤ませ、ユーリックの手を取ってぶんぶん揺すった。ふだん素っ気ないルームメイトの友情に感激しているようだが、あいにく、ユーリックのほうはコルッチョにそこまでの友誼を感じているわけではない。いざという時にコルッチョの実家であるルペルマイエル商会を頼れるというのは、ユーリックにとっては何かと便利だからである。

「――そういえば今度の休暇、ユーリックくんはどうするの? クリオさんといっしょに、おばあちゃんのところでゆっくりするの?」

「お嬢さまはそうなさりたいようだが、幸か不幸か、おれたちは休暇返上で何やらお貴族サマの護衛をしなければならなくなってな」

「ええっ!? そ、それじゃお土産のクッキーとかは!?」

「……おまえが心配するとしたらそこだろうな。判っていたことだが」

「おい、平民くん!」

 ユーリックがコルッチョの食い意地に苦笑していると、ルロイ・ハッケボルンが大股でこちらへ歩いてくる。何やら腹を立てている様子だが、何となく理由は察せられないでもない。

「ルロイさま、私の名前は平民ではなく、ユーリック・ドゼーですが――」

「貴様の名前などどうでもいい! それよりひとつ聞きたいことがある!」

 ユーリックの慇懃な言葉をさえぎり、ルロイはわめいた。

「講義が終わったあとに学長室に呼ばれていたな? レティツィアやバラウールくんといっしょに」

「ええ、まあ。ほかにも上級生の先輩がたもいらっしゃいましたが、それが何か?」

「いや、少し小耳にはさんだものでね。今度の休暇中に、きみたちが近衛の任務に特別に帯同させてもらうと聞いたのだが、それは本当か? 何でも、ローラン公のご夫人の護衛だとか……」

「はい。メルバインさまの護衛の任に、特別に加えていただくことになりました」

 ローラン公爵の妻メルバインは国王リュシアン三世の叔母のひとりで、齢五〇をすぎてもみずから馬にまたがり、狩りや遠乗りを楽しむ女丈夫としてつとに有名だった。三世陛下にとっては叔母というより年の離れた姉のような存在で、政治に首を突っ込んでくることこそないが、国政への影響力は決して小さくないという。

「へぇ、何だかすごそうなおかたのお供に選ばれたんだねえ。ユーリックくんたちもすごいねえ」

「きみは黙っていたまえ、フトッチョ・ルペルマイエル!」

 素直な感想を口にしたコルッチョを怒鳴りつけ、ルロイは人差し指でユーリックの胸を無遠慮につついた。

「……いったいこれはどういうからくりなんだ、平民くん? なぜそんなことが認められる? ぼくを差し置いて近衛の任務に帯同を許されるだなんて――」

「つまり……うらやましくていらっしゃる?」

「はあ!? 馬鹿なことをいうな! ――い、いや、うらやましいのは少しは事実だが、ぼくがいいたいのはそういうことではない! 断じて違う! ぼくがいいたいのは、そんな名誉に浴するのがなぜその三人なのかということだ!」

 ルロイはレティツィアを強烈にライバル視している。加えて、クリオのことは成り上がりの娘として見下しているし、さらにユーリックはその従者だから、二重三重に見下している。そんな三人が揃って学長に呼び出され、近衛の手伝いをするという話を耳にすれば、ルロイが心おだやかでいられないのは当たり前だった。

「私たち三人だけではないのですが……しかも私はクリオドゥーナさまのおまけで選ばれたようなものですし」

「しかし一年ではその三人だけなのだろう?」

「はい。ただ、なぜこの三人なのかと私にお尋ねになられても……お選びになったのはモーズ学長だそうですので」

「だからその選抜基準は何なのだと聞いている! 寄付金の額ならぼくはレティツィアにも負けていないはずだろう!? いわずもがな、バラウールくんにも!」

「寄付金の額ならたぶんぼくんちのほうが上だよう」

「黙っていたまえ、フトッチョくん!」

 ふたたび素直な感想を口にするコルッチョ。それによって苛立ちをさらにつのらせたルロイに、ユーリックは淡々と告げた。

「寄付金の額は無関係でしょう。レティツィアさまのご実家のことは存じませんが、少なくともバラウール家は一フリントの寄付金も払っておりませんし。――そもそもの話、ルロイさまが選ばれなかったのは男だったからではないかと」

「な……? お、男だから……だと?」

 ルロイの顔から怒気が失せ、代わりに困惑の表情が広がっていった。

「メルバインさまのお世話や話し相手など、近衛の兵士たちには頼めない役どころを任せられる女子生徒ということで、クリオドゥーナさまやレティツィアさまにお声がかかったそうですから。もし男子生徒でも構わないのであれば――こう申し上げては何ですが、ルロイさまより先に、まずはライールさまに白羽の矢が立っていたと思います。引率につくのも、同じく女性のドルジェフ教官ですし」

「ライールどのでも選ばれない、か……う、む。そうか……」

 その名前を聞いて、ルロイはあからさまに消沈していた。

 ライール・ドルレアックは騎兵科の四年生である。ゼクソールには王公貴族の子弟たちが少なからず在籍しているが、その中にあっても、成績や素行のよさという面では文句のつけようがない優等生だった。さすがのルロイも、自分のほうがライールよりすぐれているとは強弁できないのだろう。

 ユーリックはしゃがみ込んでいるコルッチョを引っ張って立たせ、

「――それではルロイさま、我々はこれで失礼いたします」

「じゃあねえ、ルロイくん」

 無言で肩を落とすルロイを残し、ユーリックは馬を引いて歩き出した。

「――ねえユーリックくん」

「何だ? きょうの夕食の献立ならおれは知らないぞ。そういうことはおまえのほうが詳しいだろ」

「違うよう。さっき名前が出たライール先輩ってどういう人?」

「女子の間ではゼクソールの王子さまと呼ばれている貴公子だ。文武両道、しかも国王陛下の遠縁、要するに座学でも実技でも血筋でも顔面でも、あのルロイぼっちゃんではどうあがいても太刀打ちできない完璧人間らしい」

「ふーん」

「そういえば話は戻ってばあちゃんのクッキーのことだが」

 馬を厩舎に戻したユーリックは、男子寮に向かって歩きながらコルッチョにいった。

「――出発前、準備のために一度ばあちゃんのうちに戻る予定だから、その時に焼いてもらってやる」

「ほ、ホント?」

「ああ。そのあとは任務がすむまで学校には戻れないが、クッキーのほうは任せておけ。届け先はルペルマイエル商会でいいな?」

「う、うん、それでいいよ! ――あ、でも、中身がお菓子だってバレないようにしてね? バレるとパパに取り上げられかねないから」

「判った。……その代わり」

 ユーリックは制服のポケットから一枚のメモを取り出し、コルッチョに握らせた。

「ここに書かれている本を手に入れてくれ。おまえが勉強に使うといえばすぐに用意してもらえるだろう」

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