第一章 束の間の休息 ~少女の見た夢~
「……これ、何の本なの?」
「魔法の基礎を学ぶのに最適な本らしい」
「ユーリックくんが使うの?」
「うちのお嬢さまに読ませる」
「え? でもクリオさんて魔法とか得意じゃない? いまさらこんな入門書を読む必要あるかなあ?」
「お嬢さまは一種の天才だから、幼い頃から特に勉強もせずにある程度の魔法は簡単に使えたが、本当に高度な魔法を使いこなすには、やはり基礎をおろそかにしては駄目だと思う。今のうちにそのへんを学んでもらわないとな」
「ふぅん。できる人はできる人なりの苦労があるんだねえ」
「ああ。どうやら世の中というものはそういうふうにできているらしいからな」
夏の夕風に乗って、どこからかおいしそうな香りがただよってくる。それを嗅ぎつけたコルッチョは、つい五分前までぜえぜえいっていたというのに、急にはじかれたように走り出した。
「そうだ、確かきょうはラム肉のソテーだったんだよぅ! 早く行って一番大きいのをもらわなきゃ!」
「……たぶんおまえはここに一〇年在籍していても痩せないだろうな」
転がるように走っていくコルッチョの後ろを歩きながら、ユーリックは小さく鼻を鳴らした。
☆
誰かに抱かれている。
相手の顔はよく判らない。靄がかかったようにはっきりとしなかったけど、でも、何となくまだ若い女性のような気がした。若いといっても今のクリオよりはずっと上で、二〇代のなかばくらいだろう。自分を抱く手のやわらかさ、あたたかさが、特に根拠もなくそう思わせてくれた。
その女性は何もいわずにじっと自分を見下ろしている。自分はただそれを見上げている。
これは何なのか――ふと冷静に考えてみて、クリオは何度目かの結論に達した。
夢だった。たぶん何度も繰り返し見たことのある夢。まだ自分が赤ちゃんの頃の夢。だんだんとそんな気がしてきた。
これは夢だった。本来ならかけらほども残らないはずの、赤ちゃんの頃の曖昧とした記憶が、夢という形を取って意識の表層に浮かび上がってきているんだと思う。
浅い眠りの中でそんなことを考えているうちに、クリオはいつの間にか目覚めていた。
「バラウールさん、そろそろ起きたほうが――って、もう起きていたんだね」
二段ベッドの上の段に横たわっていたクリオのぼんやりとした視界の中に、寝間着姿のレティツィアの顔が入ってきた。
「ふだんはなかなかひとりじゃ起きられないのに、外泊許可が出た日にかぎって起きられるなんて、もはや一種の才能じゃないかな?」
「今のわたしにはそんな皮肉なんてぜんぜん効きませんわよ、レティツィアさま♪」
あくび交じりにベッドを下りたクリオは、大きく伸びをして笑った。いつになく寝起きがいいのはさっき見た夢のせいだろう。すでに漠然として明確な記憶としては残っていないけど、きっとときどき見る昔の夢だと思う。
顔を洗って部屋に戻ってきたクリオは、レティツィアがすでに着替えをすませているのを見て首をかしげた。
「さすがにレッチーも今回は実家に帰るわけ?」
ふだんのレティツィアは、週末ごとの外泊許可日にもほとんど実家に戻ることなく、寮でみっちりと勉強している。その彼女が外出の準備をしているのが珍しくて、クリオは何の気なしに尋ねた。
「そうだね、両親と祖父には伝えておこうと思って」
「伝えるって、何を?」
「わたしたちがお供をするのはローラン伯夫人のメルバインさまだよ?」
「あー……何か偉い人だっけ?」
「国王陛下の叔母に当たるおかただって説明したよね、前に?」
その時レティツィアがもらした小さな溜息を、クリオは聞き逃さなかった。
「――メルバインさまのお相手をするためにも、うっかりご機嫌をそこねないためにも、メルバインさまについてあれこれ事前に聞いておこうと思って」
「へー」
クリオのほうを見もせず、レティツィアはお尻を突き出すような恰好で机の上の鏡を覗き込み、襟もとのリボンの形を整えている。パジャマを脱いで下着姿になったクリオは、さりげなくレティツィアとの間合いを詰め、少女のお尻を下から上につるんと撫でた。
「ひゃっ!?」
レティツィアの甲高く短い悲鳴を聞いて、クリオはぶふっと噴き出した。
「レッチーってスタイルいいからついつい触りたくなっちゃうんだよね」
「きみねえ……」
レティツィアはお尻を押さえたまま、じとっとした目でクリオを睨みつけた。これまでのつき合いで、この少女がこうしたスキンシップにあまり慣れていないことは判っている。いつも何かと正論でレティツィアにやり込められることの多いクリオにとっての、優等生に対する数少ない反撃手段がこれだった。
ブラウスに袖を通してカフスボタンを留めながら、クリオは悪びれることなくいった。
「どんな人だかよく判らないけど、レッチーのご両親によろしくね」
「……伝えておくよ。きみもあしたは絶対に遅刻しないようにね」
コンパクトにまとめた荷物を片手に、レティツィアは小さな苦笑を残して部屋を出ていった。
「――おはようございます、お嬢さま」
レティツィアに遅れること約一〇分、クリオが荷物をまとめて寮を出ると、すでにユーリックが準備を終えて噴水前で待っていた。
「ふだんより準備がお早いようですが」
「だって、今回はいつもみたいにのんびりできないじゃん? だったら少しでも早くばあやのところに行きたいもん」
いつもの週末であれば、土曜の昼すぎに寮を出てばあやの家に向かい、一泊してから日曜の夜に寮に戻ればいいけど、今回はそんなにゆっくりしていられなかった。あしたの昼前にはローラン伯の屋敷にお邪魔して護衛役の近衛兵たちと合流、昼すぎには出発することになっているのである。
ゼクソールの門前には、実家に帰省する生徒たちを当て込んでいるのか、たくさんの辻馬車が停まっていた。週に一度の外泊許可日には帰省できないほどの遠方から来ている生徒にとっては、待ちに待った今年度最初の長期休暇ということもあって、みんな明るい笑顔を見せている。
「あ、クリオちゃーん、ユーリックくーん!」
ひときわ豪奢な馬車に乗り込もうとしていたマルルーナが、クリオたちに気づいて声をかけてきた。
「マール……その、何かスゴいわね、その馬車……運賃高いんじゃない?」
「え? ああ、タダだよ、タダ! ついでに乗せてってもらうんだー」
「あれはルペルマイエル商会の馬車です」
馬車のキャビンに刻まれている紋章を指差し、ユーリックがそっとささやきかける。
「あ! ユーリックくん、クッキーお願いねぇ!」
馬車の窓から顔を覗かせたふくよかなクラスメイトが、ユーリックに向かって呑気に手を振った。
「判っている。おまえも約束を忘れるなよ?」
「おばあちゃんのクッキーのためなら何でもやるから任せといてよう」
「それじゃふたりとも、お仕事がんばってねー!」
クラスメイトたちを乗せた馬車が去っていくのを見送り、クリオはふとユーリックに尋ねた。
「ユーくん、コルッチョに何か頼みごとでもしたわけ?」
「ええ」
「何を?」
「いろいろとです」
「え、何それ? 気になる!」
「いずれ判ります。それよりも、今は大事なお役目に集中してください」
小さな辻馬車を選んで乗り込んだユーリックは、御者に行き先を告げてからシートに背中を預けた。
「……レティツィアさまから一度ならずご忠告を受けていることとは思いますが、今回私たちがお供をおおせつかったのは王家の血筋に連なるおかたです。決して粗相のないよう充分ご注意ください。お嬢さまはしばしば、相手が誰かを考えもせずに暴走することがございますので」
「そう思うなら最初から辞退すればよかったのに……」
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