第一章 束の間の休息 ~狩人たち~

 ごとごとと走り始めた馬車の中で、クリオの機嫌が斜めに傾いていく。

 もちろんクリオも、学長から提案された今回の話を固辞するという選択肢などなかったことは判っている。成績優秀な一部の女子生徒だけが特別に参加できる課外授業ともいうべき今回の任務は、学長が最初に明言した通り、強制参加なわけじゃない。

 ただ、レティツィアが参加するのであれば、彼女より優秀であることを証明しなければならないクリオに、それを拒否することはできなかった。もしここで参加を拒否すれば、そのぶんだけレティツィアに先を行かれてしまう。

「その通りです。……しかし、ただ参加するだけでは足りません」

「え? どういうこと?」

「旦那さまが急にお亡くなりになった時、ほかの貴族たちがバラウール家に同情してくれなかったのは、旦那さまが社交界に背を向け、社交界に溶け込もうとなさらなかったからです。お嬢さまが駆龍侯を継いだあと、この国でつつがなくやっていくためには、やはり貴族社会にうまく溶け込む必要があるのではないでしょうか?」

 ユーリックがいわんとすることは判る。クリオが国王に謁見した時も、宮中に出入りする人間の誰ひとりとして彼女の味方をしてくれなかった。貴族たちの中に父の友人がひとりでもいれば少しは違ったのかもしれないけれど、父は本当に人づき合いというものに労力を割くことを嫌がっていたのだ。

「伯爵夫人は陛下の叔母君、さらには社交界に大きな影響力を持つおかたです。夫人に気に入られておくのは悪いことではございません」

「それってけっこう難しいと思うんだけど……」

「正直いえば、私もお嬢さまにそこまで期待してはおりません。ただ、最低でも夫人のご不興を買わないようにしていただきたいのです。今回は夫人に名前を知っていただき、顔をつなぐだけでもかまいません。とにかく将来この国の社交界でやっていくために、少しずつ足場固めをしていきましょう」

「うん、まあ……」

 出発前からユーリックがこんなことをいうのは、クリオの持ち前の反骨心を警戒しているからだろう。頭に血が昇ると、たとえ目の前にいるのが国王であっても自分を抑えられなくなる気丈さは、クリオの長所でもあり短所でもあった。

「…………」

 クリオは静かに溜息をつくと、シートに横たわってユーリックの膝に頭を乗せた。

「……大丈夫、わたし、がんばるから」

「お願いいたします」

 そっと目を閉じたクリオの頭に、ひんやりとした武骨な少年の手が置かれた。


          ☆


 小麦色の太腿でシラカバの幹をぎゅっとはさみ込み、下半身だけで身体をささえた状態で、シャルタトレスは背負っていた弓を手に取った。

「よっ……と」

 そのシラカバはひときわ背が高く、シャルタトレスが登った高さからなら、周囲の林をあらかた見渡せる。もちろんこの高さから落ちればまず命はない。が、彼女が怖じけることはなかった。左手で背中の矢筒から特製の矢を引き抜き、弓をつがえて静かに引き絞る。

 カモシカの角と腱、それにイチイの木材を組み合わせた弓から放たれる矢は、風さえなければ半リーグ先まで届く。どんな魔法もこの長射程にはかなわない。実際、シャルタトレスが狙いを定めているのは、シラカバの林を抜けた先の丘に駆け上がってきた、群れをひとつ率いる大きなシカだった。

「――――」

  シャルタトレスたちは森に棲む獣を狩り、さまざまな日用品を作り出す。身にまとっている袖なしのチュニックは冬に仕留めた熊の毛皮で作ったものだし、同じ頃にバムサウドが獲ってきた鹿はベルトとブーツになった。今シャルタトレスが狙っている鹿も、また誰かのブーツなりベルトなり、あるいはほかのものに変わるのだろう。

「頭領!」

「!」

 不躾な声が下から飛んでくるのと、シャルタトレスの指が弦を放すのはほとんど同時だった。

「……ちっ」

 意図しないタイミングで放ってしまった矢の行く末を追いかける気もなく、シャルタトレスは視線を落とした。シラカバの根元につないだ馬のそばで、調子のよさそうな若者がこちらを見上げて手を振っている。

「頭領~! 聞こえてるっすか~?」

「シャハラニ! てめえ鹿一頭な! きょう中!」

「はあ? どういうことっすか?」

「獲物逃がした! てめえのせいだ!」

 シャルタトレスは弓を背負い、枝から枝を伝って地上に移動した。

「……で? よほど重要な話なんだろうな? わたしの狩りを邪魔するくらいだから」

「あ、いや、そこまで重要かどうかは……」

「…………」

 シャルタトレスの眼光に気圧されたか、シャハラニは慌てて首を振りながら弁解した。

「あっ、兄貴が今すぐ頭領を呼んでこいっていうもんすから、オレ、それで……」

「バムサウドが?」

「は、はい。ちょっと前に都から早馬が来てたんで、それと何か関係あるんじゃないっすか?」

「都から早馬?」

 シャハラニの言葉に、シャルタトレスは眉をひそめた。

「都のお偉いさんが何の用だって? また血の雨でも降らせてえのか?」

「オレにいわれても……」

「まあいいや」

 シャルタトレスは背負っていた弓と矢筒をはずしてシャハラニに押しつけた。

「と、頭領? 何すか、これ?」

「さっきいったよな? 鹿一頭、夕メシに間に合うように仕留めて運んでこい」

「いやいやいや、無理っすよ、そんなの! そもそも女でこんな剛弓を平然と引いてる頭領が異常っす!」

「てめえが非力なだけだろ」

 鞍にかけておいた毛皮のマントをはおり、鐙に足をかけて馬にまたがったシャルタトレスは、シャハラニの鼻先に指を突きつけた。

「とにかく一頭っていったら一頭だ。夕メシまでな」

「え~?」

「仕留めてこられなかったら次の仕事には連れていかねえから、てめえ。泣き言いってるヒマがあったらさっさと獲物捜せや」

 シャハラニの背を軽く蹴飛ばし、シャルタトレスは馬の背に手綱を打った。

 このあたりの夏は、シャルタトレスたちの故郷のそれよりずっと短い。暑さも控えめで、冷ややかな影の落ちた森の中には緑の匂いの強い空気が満ちている。

 複雑に編み込んだ長い髪を馬の尾のように後方に流し、シャルタトレスは馬を急がせた。

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