第二章 彼らの嘘 ~出発準備~

「な、何? 何? わたしまだやらかしてないよね、ユーくん?」

「いちいちびくつかないでください。……あれはお嬢さまではなく、おそらく旦那さまのお名前に反応したのでしょう」

 ゼクソールに入学したばかりの頃にも、駆龍侯の娘としてほかの生徒たちの耳目を集めることの多かったクリオだったが、少年少女が多い生徒たちより、一八年前のことを知る大人たちの中にこそ、バラウールの名の重みをよく知る者が多いのかもしれない。

 レティツィアはふた振りの剣を持ってやってきた。

「これ、きみたちのぶん」

「え? 別にいらないんだけど……」

「そうはいっても、何か不測の事態があった時に身を守るには――」

「不測の事態、ですか?」

「まあ、今回は森の奥まで行くわけだからね。狐を狩るつもりでいたら熊が出た、というような事態はあるかもしれない」

 本気とも冗談ともつかない口調で応じたレティツィアは、ふたりをともなって敷地内の一角にある厩舎に向かった。乗馬と狩りを好む夫人の嗜好に合わせてか、この屋敷には体格のいい馬が一〇頭以上飼育されており、今回、生徒たちにはその馬を貸してもらえるという。

「…………」

 窓越しに屋敷の中を見ているクリオに気づき、ユーリックはそっと尋ねた。

「何かございましたか、お嬢さま?」

「いや、ウチとはまるで違うな、って……」

「確かにそうですね」

 ユーリック自身、バラウール邸で生まれ育ったということもあり、広い屋敷が珍しいわけではなかったが、ここにはバラウール邸と違って華やかさがあった。というより、ガラムがあまりにも飾り立てるということに無頓着だったのだろう。本来の貴族の住まいとは、おそらくこういうものなのだと思う。

「自分の乗る馬の馬具は自分でつけろといわれたけど、バラウールさんはドゼーくんに頼らずにできるのかな?」

 すでにここには学長に選ばれた女子生徒たちがすべて集まっているようだった。どうやらユーリックたちが一番遅かったらしい。先輩女子たちに続いて馬に鞍を乗せながら、レティツィアはからかうような口調でいった。

「で、できるし! ……多少時間かかるけど」

「それではみなさんにご迷惑がかかりますので」

 本当ならこういう作業もクリオに自分でやらせて習熟させたいところだが、今回は時間がない。ユーリックはさっさと厩舎の中に入って残っていた馬たちを品定めし、その中から二頭を選び出して馬具といっしょに運び出した。

「……こんなところか」

 まだ初心者といっていいクリオには気性がおとなしくあつかいやすい馬を用意し、ユーリック自身はあつかいづらくとも気が強く脚の速そうな馬を選んだ。どちらの馬にも複座の鞍を取りつけたのは、それこそ不測の事態が起こった時に、ユーリックとクリオを乗せて全速力で走らせることを考慮したからである。

「――全員、準備はできているか?」

 ユーリックがクリオのぶんの馬具まで取りつけたところで、ひとりだけ勢子ではなくいかにも高そうな軍服を着た近衛兵が、気取った髭を撫でつけながらやってきた。

「今回の護衛任務の指揮を執るウーゴ・ロッコである」

 自分の子供たちほどの年齢の学生たちを見渡し、ロッコ隊長はところどころに咳払いを交えていった。

「――護衛任務に帯同ということではあるが、今回のきみたちの立場は、いわば夫人のお相手だ。護衛の任はあくまで我々がおこなう。とはいえ、森の奥では何が起こるか判らない。つねに注意をおこたらないように。以上、それでは出発する!」

 隊長の号令のもと、夫人を乗せた馬車を守るような隊列を組んで一行は出立した。勢子に扮した近衛兵と女子生徒たちを合わせれば、その総勢は五〇人を超えるだろう。夫人の馬車はその中ほどに位置し、ユーリックたちもそのそばに控えている。

「ねえユーくん、ホントにその森って熊とか出るの? 出たらどうする?」

「熊がいるかどうかは判りかねますが、熊であれ狼であれ、襲ってきた場合は殴り倒すだけです」

 熊の頭蓋骨を砕けるかどうか、ためしたことがないのではっきりとは判らない。が、ユーリックの腕力なら、熊の戦意を奪って撃退するくらいなら充分可能だろう。

 すでに一行は西門から王都を出て、王家が所有する広大な森を目指して街道沿いに南西へ進んでいる。収穫前の青い麦畑を横目に馬をあやつっていたユーリックは、眉間にかすかにしわを寄せて前方を行く馬車を見つめていた。

「どうしたの、ユーくん?」

 ユーリックの仏頂面に気づいたのか、クリオが怪訝そうな表情で尋ねた。

「……いささか妙だと思いまして」

「妙って? 何が?」

「夫人はなぜ馬車にお乗りなのです?」

「なぜって……いや、長距離の移動ならふつうに馬車じゃない? 偉い人なら特に」

「伯爵夫人は狩りを好む矍鑠としたおかたと聞いています。狩りをするのもみずから馬にまたがって獲物を追うのだとか……そのようなおかたが狩り場に向かうのに、のんびりと馬車に揺られていくというのが今ひとつ釈然としないのです」

「んー……つまり、そういう人なら馬車じゃなく馬に乗ってもっとがーっと向かうんじゃないかってこと?」

「ありていにいえばそうです」

「考えすぎじゃないの?」

「どうしたの、ドゼーくん?」

 ふたりのやり取りを聞きつけたのか、クリオとは反対側からレティツィアが馬を寄せてきた。

「レティツィアさま、本当にあの馬車に夫人が乗っておられるのですか?」

「――――」

 唐突なユーリックの問いに、レティツィアが目を丸くする。

「それは……どういう意味? 馬車が空だっていいたいの?」

「我々は夫人が馬車に乗り込むところは見ておりません。我々が馬の準備をしている間に、夫人はすでに馬車にお乗りになったといわれて、ごあいさつもさせてもらえず、そのまま出立となりましたので」

「確かにそうだけど、でも、そもそもどうしてそんな疑問を持ったのかな、きみは?」

 そこでユーリックはクリオに聞かせた先ほどの説明と、さらにもうひとつつけ加えた。

「あいにくと不調法で、私は貴族の狩りの作法というものを本で読んだ知識しか持っておりませんが、ふつうは猟犬なり鷹なりをともなうものなのでは?」

「それは――」

 ユーリックの指摘に、レティツィアもまた馬車を見つめて言葉を途切らせた。

「レッチーは狩りとかやったことないの?」

「わたしは……本当はわたしも兄たちの狩りに同行したかったんだけど、母がどうしても許してくれなかったんだよ。でも、いわれてみれば確かにそうだ。兄たちはそれぞれお気に入りの猟犬を連れて狩りに出かけていた覚えがある」

「え? じゃあ何? 狩りっていうのはウソなの? あの馬車には誰が乗ってるわけ?」

「メルバインさま……のはず、だけど」

 とはいえ、本当に夫人が乗っているのかどうか確かめる手段はない。

「さりげなく小窓から中を覗くっていうのは? ねえ? どうどう? どうかな?」

「馬車の隣に馬を寄せようとしただけで、隊列を乱すなと叱責されるのは目に見えてるよ。頼むからそんな真似は絶対にしないでね、バラウールさん」

 クリオに釘を刺し、レティツィアは思案顔を見せた。

「……あらためて考えてみると、確かにいろいろと腑に落ちないところがあるけど……でも、この件には近衛もかかわっている。ということは、陛下も了承しているということだよ。そもそも陛下と親しいメルバインさまだからこそ、近衛を借り受けることができたわけだし」

「妙な裏があるとは考えにくい、ということでしょうか」

「ちょっとユーくん!」

 ユーリックがレティツィアとうなずき合っていると、不機嫌さを隠そうともせずクリオがまた割り込んできた。

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