第五章 彼のいない狂騒の夜 ~“聖母”~

 ユーリックは無傷で佇立している背の高い木の枝に飛び上がると、高い場所から四方を見渡してみた。

「……ちっ」

 ほぼすべてが闇色に染まった森の一角から、赤い火の手が上がっている。シャルタトレスが吹き飛ばされたユーリックを追わずに立ち去ったのは、ここでの異変を察知される前に夜営地の一行を急襲したかったからだろう。そしてそれはもう成功していると見たほうがいい。

 木から飛び下り、ユーリックは走り出した。シャハラニというあの若者ならまだしも、シャルタトレスのような使い手に奇襲されたのではクリオの身があやうい。おそらくシャルタトレスは、クリオと同じレベルの炎の魔法を、彼女よりもはるか遠く――それこそ顔も視認できないほどの遠距離から、強力な弓矢を使って撃ち込むことができる。真正面から対峙してしまえば、クリオには身を守ることしかできないだろう。

「ドルジェフ教官とレティツィアさまがどうにかしてくれるといいんだが――さすがに楽観的すぎるか」

 自分の迂闊さに歯噛みしながらユーリックは走った。ただの矢だと思い込んでシャルタトレスに先手を取らせた自分の甘さ、そしてそれ以前に、ほんの小一時間のつもりでクリオのそばを離れてしまった自分の迂闊さ――いくら後悔してもし足りない。

 だが、自分を責めたところで事態は好転しない。少なくとも今はまだ走っていられる。走っていられるうちはまだ終わりではない。

 かつてガラム・バラウールはユーリックにいった。ガラム亡きあと、もしクリオに何かあれば、ユーリックの四肢は即座にただの土塊に変わると。ならばこうしてユーリックが走り続けている間は、クリオも無事のはずだった。

「……!」

 右手を失ってバランスの悪い身体を無理矢理に御し、ユーリックは森の闇を駆け抜けていった。


          ☆


 変装のために着ていた勢子の衣装を脱いで腰に巻き、右脚を鞍の上に上げて撫でさすりながら、エルストンドはシードルの栓を抜いた。よく馴れた馬はあえて手綱を取るまでもなく、王都フラダリスへと続く街道をゆっくりと歩いていく。

 すでに空には星がちらつき始めている。視界が開けているうちに街道筋まで戻ってこられたのは運がよかったかもしれない。

「いまさらだが……大丈夫かねえ、“姉妹ソロール”ドルジェフは?」

 酸味の利いたシードルでのどを潤し、ぼそりと呟く。

「あの若い身空で命を落とすのは哀れかもしれんが、オレには関係のない話……というより、競争相手が減るって意味じゃあ朗報ともいえるんだが、ま、ちともったいない気もするな」

 数時間前に別れた女魔法士のことを思い、じっと背後を見つめていたエルストンドが正面に向き直ると、宵闇の向こうから小さな明かりが近づいてくるのが見えた。

「――――」

 まだ半分ほど中身が残っているシードルの瓶を道端に投げ捨て、エルストンドは馬の鞍にくくりつけてあった杖に手を伸ばした。

 今のエルストンドがいえる立場ではないが、ただでさえ危険の多い深い森の中を、さらに日も暮れたこの刻限にあえて先に進もうとするのは、まともな人間のすることではない。よほど深刻な――たとえば極秘裏に王族の娘を隣国へ届けるといったような――事情でもないかぎり、もっと安全な旅路を選ぶのがふつうである。

 要するに、前方からやってくるのはふつうの人間ではない可能性が高い。

 よく見れば、それはこんな森の奥にはますます不釣り合いな、豪奢な仕立ての黒塗りの馬車だった。特に先を急ぐ様子もなく、車輪の回るかすかなきしみを引きずって、次第にこちらへと近づいてくる。

「……え?」

 やがてエルストンドは、その御者台に誰も座っていないことに気づいた。エルストンド自身も今は手綱を握ってはいないが、ただの馬と馬車ではまるで違う。馬車の中にいる人間は、手綱を握るどころか前も見ることすらせずに、どうやってここまで馬を御してきたのか。

 あれこれとエルストンドが考えをめぐらせていると、不意に馬車が停まった。

「“兄弟フラター”エルストンド」

「――――」

 馬車の中から唐突に呼びかけられ、エルストンドは思わず杖を取り落としそうになった。こんなところで自分を知る人間に出会ったから――ではない。馬車の中から響く声、聞き覚えのあるその女の声に驚いたのだった。

「まさか……」

 あたふたと馬を下りたエルストンドは、馬車のそばまでひょこひょこと歩み寄り、ひざを折って頭を下げた。

「――このような場所に、しかも供のひとりも連れずにお出ましになられるとは思いもかけぬこと……何かございましたか? 我らが“マー”よ」

「わたしがみずから出向いては何か不都合でもあるのか、エルストンド?」

「は? いや、そのようなことは……」

 じっとうつむいたまま、エルストンドは額に汗をにじませた。エルストンドの位置からでは、馬車の中にいる相手をじかに見ることはできない。同様に、馬車の中からもエルストンドの姿は見えないはずだった。小さな窓にはすべてカーテンが引かれていたし、外の様子を中に伝える御者すらいないのである。

 にもかかわらず、エルストンドは自分に向けられる視線をはっきりと感じていた。

「ガラム・バラウールの娘はどうしている?」

「は……おそらくですが、今頃はアフルワーズのチャグハンナと戦っているのではないかと。ただし、すぐそばにはソロール・ドルジェフがついておりますので、不測の事態は避けられるものと――」

「娘の安否はどうでもよい」

 エルストンドの言葉をさえぎり、威厳ある女の声は続けた。

「――重要なのは、あの娘が地龍召喚ロゲ・ドラキスの真訣にいたるその瞬間を見届けられるか否か、その一点のみだ。かの大魔法の秘密さえ手に入るのであれば、ガラムの娘が死のうが生きようが意には介さぬ」

「は……もしそのようなことになったとしても、ソロール・ドルジェフが見届けてくれるものと」

「貴様は行かぬ、と?」

「は? あ、いえ、もともと私の役目はアフルワーズの動きを探り、フラター・モーズとソロール・ドルジェフの間で連絡係を務めることだけかと……」

「そう考えていたわけか。……確かにそれ以外の命は下していなかったが」

「は、はい」

 額の汗が、うつむいたエルストンドの鼻すじを伝って地面にしたたり落ちていく。エルストンドとしては、昼間ジュジュ・ドルジェフにガイエン・モーズからの伝言を伝えた時点でお役御免、チャグハンナを相手に立ち回るような危険な仕事はしたくないというのが本音であった。

「ではあらためて命じる」

 できればこのまま帰らせてほしいというエルストンドのささやかな願いは、すぐさま木っ端微塵にされた。

「――立ち戻ってソロール・ドルジェフに助力せよ。肝心の真訣を見届ける前にあの娘に死なれては意味がない」

「で、ですが私は、立場上、駆龍侯の娘の前に出るわけには――」

「陰ながら助ければよい。必要なら“薬”を使え。まだ持っているはずだろう?」

 さも当然といった調子でエルストンドの反駁は叩き潰された。

「――もし真訣が手に入らぬまま娘が死んだ時は、貴様もソロール・ドルジェフも命はないと思え」

「は、はい……」

 もはやこれ以上何もいえずに頭を下げ続けているエルストンドの前で、馬車を引く馬たちは、御者にあやつられもせずゆっくりと向きを変え、静かにもと来た道を戻っていった。

「チャグハンナとやり合うとか、冗談じゃないんだが」

 したたる汗が作り出す地面の染みを凝視したまま、エルストンドはのろのろとした動きで立ち上がった。

「……とはいえ、我らが“聖母ステラ・マー”の命令は絶対だしな」

 肩掛けバッグの中から小さなリンゴを取り出したエルストンドは、それをしょりしょりとかじりながら、おとなしく待っていた馬のところに戻った。

「出征する兵士ってのはこんな気分なのかねえ――」

 一〇分前とは真逆の心持ちで、エルストンドは馬首を転じた。

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